自由なんかとりあげて、僕らの不和をおさめてくれ

なんか読む気しねえという人は、一番最後の獄中のルイ=ナポレオンへのプルードンの囁きだけでも。

とにかく、民衆は今度こそ勝利を横取りされまいと思っていたのだ。1830年バリケードの中から、どうやってルイ=フィリップとその一味が王座への道を開いたかを、民衆はおぼえていた。そして、こういうごまかしを二度とさせまいと思っていた。自分のための革命を念じていたのである。

国立作業場の悪夢

この壮大で見事な計画は、失業の一掃を目的としているように見えたが、本当の狙いは、「祖国の費用」で煽動され制服を着せられ武器を与えられた若者で編成される出来たての遊動警察隊とは別に、政府の手中にあるもう一つの軍隊を作ることにあった。「作業場は革命の翌日に、民衆を食べさせ、しかも懶惰から来る混乱を避けるため無為徒食させないためにとらざるをえなかった公安上の方便で、貧民救済の下書きにすぎなかった。マリ氏は作業場をたくみに組織したが、生産活動にはなんのプラスにもならなかった。彼は四ヵ月のうちに、これを権力の手中にあるのらくらな親衛隊に変えてしまった。(略)」、とラマルチーヌは後日告白している。これほどたくみなもくろみに目をつぶるためには、ヴィクトル・ユゴーほどの無邪気さが必要だった。六月二〇日に、彼は議会で次のように叫んだ。「私は信じません。信じられません。嘘ではないのです。パリの労働者を傭兵に変え、世界一の文明都市で、働く住民を構成するすばらしい人々でもって、独裁に奉仕する暴動の親衛隊を作りあげるなどという途方もない考えが、誰かの頭に、まして政府メンバーの一人ないし数人の頭に芽ばえたなどと、どうして信じられますか。」無邪気なユゴーよ!

けりをつけろ

 四月一六日の直後から、反動派はすでに見抜いていた。自分が実際的な主導権を握っていること、共和主義的なお祭騒ぎが大衆の願望のはけ口の役を十分つとめおえたこと、喜劇もこれだけ続けばもうたくさんだということを。もちろん、ルイ・メナールも言うとおり、「〈共和主義者くたばれ〉と叫ぶ勇気はまだなかったので、追及は共産主義者を叩くという名目で行なわれた。」しかし、狙いはまさしく共和主義者にあった。民衆に身のほどを知らせることにあった。そのためのいちばん確かな方法は、恐怖をかきたてることである。成功まちがいない昔からの常套手段だ。

 共和制になったところで、社会構造はちっとも変わっていなかった。あいかわらず王政時代のもので、共和主義者が権力の座にいること自体アブノーマルなことだった。明晰で絶対的なプルードンの精神には、もはやいささかの幻想もなかった。「事態の進展がたえず証明していたのは、王政的な社会の造りを温存するかぎり、遅かれ早かれ王政の本音へ戻らねばならないということだった。民主主義は自己の原理を規定できなかったため、今までは王権に対する裏切りにすぎなかったというのが百パーセント真実だ。われわれは共和主義者ではないのである。ギゾー氏の言葉をかりれば、単なる〈謀反人〉なのだ。」

殺戮

監獄や兵営の中庭で、辻々で、大量の銃殺が行なわれた。後のコミューンでも繰り返されるように、地方出身の国民軍や、ある種の危機に際会すると草深い田舎から立ち現われるパリっ子への隠微で未開な憎悪の念が利用された。(略)木靴をはいた秩序が、革靴の反乱からパリを守りにきたのだ。

チュイルリ宮殿の地下室の警備を任されたのも、この高貴なる田舎者だった。地下室には捕虜があふれ、泥と汚物の中ですしづめになり、腹をへらし、息がつまり、ある者は気が狂った。番兵は天窓から発砲した。また、あまりこみすぎるからと言って、幾組かを外へ出し、しかるのち銃殺した。同じシーンが士官学校の地下室でもくりひろげられた。市庁舎の地下室では二、三〇〇人の捕虜が窒息死した。ついで、裁判技きの大量移送〔流刑〕が行なわれた。

弾圧に抗議する激した声の中に、ピエール・ルルー、コーシディエール、プルードンと並んで、断罪された司祭フェリシテ・ド・ラムネーの声が聞かれたのも異とするに足りない。「これだけ血を流したんですから、その責任を問う神様がないじゃすみませんよ」――老いたるキリスト者はパ=ペルデュの間で議員たちにこう言った。戦闘が終わり、自分の甥が国民軍の制服を着て会いにきた時、彼は一喝したものだ。「出てゆけ、けがらわしい。貧乏人を撃つとはなんだ。」自分が出している『プープル・コンスチチュアン』紙でも、共和国は死んだと彼は宣言した。「われわれの目の前にあるのは、どう見ても共和国ではない。いや、ちゃんとした名前があるようなものではない。パリは戒厳令下で、軍政に委ねられている。
(略)
重ねて言うが、これはどう見ても共和国ではない。血に染まった共和国の墓のまわりで、反動の無礼講がくりひろげられている。

「皇帝抜きの帝政」というユートピア

本当の支配者は別にいて、農民に支えられ、やがて新たな権威のもとに反動勢力を再結集する。農民が彼についたのは強烈な民衆煽動のおかげであるが、同時に、大量の犠牲者を出した労働者階級が、もう人を信用しなくなってしまい、共和制を嫌悪したというその混迷のせいでもあった。しかも、愚民政治的な独裁という形をとりそうな、万事を単純化するこの未知の力と早目に結んでおこうと試みた者が、社会主義の指導者の内にもいたのである。順に浮かんだ数あるユートピアの中でも、とりわけ実現性があるのは「皇帝抜きの帝政」というやつかもしれない。口には出さぬこんないかがわしい気持から、ルイ・ブランは1840年ルイ=ナポレオンボナパルト公をアムの監獄に訪ね、(略)やがてプルードンがルイ・ブラン以上に深入りしてゆく。

プルードン狂気の囁き
「おいで、世のルールからはみだした背教者たちが君を待っているよ。」

プルードンはルイ=ナボレオンに近づいて、惹かれつつ軽蔑するという好意とおぞましさのまじりあった目で、しげしげとこの人物をうち眺めた。「君はクレチン病だとか山師だとかキじるしだとか言われてるらしいね……」いいじゃないか。クレチン病・山師・キじるしであればあるほど、俺は愛情をこめて、情熱的な冷笑とともに、君にささやくのだ。「おいで」と。「おいで、君こそ僕らに必要な人だ。あのブルジョワどもをやっつけてくれ。やつらから子供も金貨も全部とりあげてくれ。社会主義共産主義、カベ主義、フーリエ主義の仇を討ってくれ。おいで、世のルールからはみだした背教者たちが君を待っているよ。良心も女房も君に献上するつもりでいるよ。ボナパルトの名には、栄光が一つだけ欠けていた。自由なんかとりあげて、僕らの不和をおさめてくれ。フランス人民の恥辱をきわまらしてくれ。おいで、おいで、おいで。」要するに、共和制が無能を暴露した以上、社会主義を作るのはおそらくルイ=ナポレオンであろう。だがそのためには、あのロボットにこれこそ自分の使命だと悟らせねばならぬ。反動の一味につかまらないようにせねばならぬ。