処暑バクーニン

バクーニン著作集〈3〉 (1973年)

バクーニン著作集〈3〉 (1973年)

1848年のアピール
オーストリア、それは冷酷な無法地帯である」

 専制君主らの陰謀の来たるべき目標はなにか?
 オーストリアの確保である。オーストリアは戦闘の中心地である。
 ではわれわれはなにを望むべきか?
 彼らの望みと正反対のもの、すなわちオーストリア帝国の完全な解体である。オーストリアを主戦場としようという専制君主らの意図はまったく正しい。というのはロシア帝国専制の外的支柱となっているごとく、オーストリアはヨーロッパの中心部で専制を組織的におし進めているからである。オーストリア、それは冷酷な無法地帯である。ヨーロッパに荒れ狂う自由への志向の波濤が、かくも長期間ぶつかっては無力にも砕け散った防壁である。それゆえわれわれが自由のためにオーストリア帝国の崩壊と殲滅を望むのは理由のないわけではない。なぜならこの帝国の崩壊はオーストリアに隷属する多くの民族の解放と復活およびヨーロッパ中心部の解放となるであろうからである。オーストリアに組するものは自由に敵対する。だから自由に組するわれわれはオーストリアに敵対しなければならない。われわれはこの帝国の崩壊を促進させなければならない。

マルクスビスマルク

両者を結びつけている点を見てみよう。それは国家崇拝である。私がビスマルク氏についてこのことを証明する必要はあるまい。これはすでに証明ずみである。彼は頭の先から爪先まで政治家(国家の人)であって、政治家以外のなにものでもない。しかしマルクス氏についても同様であることを証明するためには、たいして苦労はいらないように思われる。彼は政府が好きなあまり、国際労働者協会の内部にすら、それを作ろうとしたほどだった。彼はまた権力を崇拝するあまり、今日なお彼の独裁をわれわれに押し続けようとしている。(略)ドイツにおける彼の政党の基本綱領が明言しているように、偉大な人民国家の建設である。
 しかし国家と言うときは、必然的にある限界を持った特殊な国家ということになる。そしてたとえそれが多くの人口といろいろな国を含んだ大国家であっても、さらにより多くの人口と国とを排除したものであることも疑いない。ナポレオンやカール大帝がかつて夢みたような世界国家や、教皇権が夢みたような普遍的教会というのでないかぎり、いかに現在のマルクス氏の国際的野心が旺盛であっても、彼の夢が実現した時――万一実現したらばの話だが――マルクス氏は一度にいくつかの国を統治するわけにはゆかず、たった一つの国を統治することで満足しなければならなくなる。したがって国家と言うときはある一つの国を言うのであり、ある一つの国を言うときは、それによっていくつかの国の存在を認めているのであり、しかしていくつかの国と言うときは、不可避的に、中止も終わりもない競争、嫉妬、戦争を語っているのである。

ドイツのブルジョアジー

一度たりとも自由を愛したことはなく、理解したこともなく、欲したこともなかったのだ。彼らはあたかもチーズのなかの鼠のように、静かで幸福な隷属のなかで暮らしている。彼らが望むのはそのチーズが大きいものであるようにということだけである。1815年以降現在まで、彼らはたった一つのことしか欲してこなかった。しかしその一つのものを彼らはこの上なく高貴なものであるかのように、執拗で精力的な情熱をもって欲してきた。彼らはたとえそれが残忍で凶暴な専制君主であっても、自分たちの不可避的な隷属とひきかえに民族的偉大さと呼ばれるものを与えることができさえすれば、またドイツ文明の名において、ドイツ民族を含めてすべての民族を震えあがらすことができさえすれば、その強力な主人の手のなかにあるということを感じていたかったのである。

反乱のあとの三世紀にわたる隷属

もしもルターが封建諸侯に抗して立ち上がった農民大衆のこの偉大な社会主義的人民運動の先頭に立つことを欲し、都市のブルジョアジーがそれを支持していたならば
(略)
[反乱が敗れ去って]以後この教会はプロテスタント諸侯の手中にあって、恐るべき専制政治の道具となり、プロテスタントでありながら隷属、その反動としてカトリックでもある全ドイツを、少なくとも三世紀にわたってこの上なく愚かな隷属状態に陥れたのであった。そして悲しいかな! 今日に至るまでもこの隷属が自由に代わる徴候は見られないのである。
(略)
 自由の夢を見たあとで目が覚めると、彼らは今まで以上に奴隷的存在になっていた。この時からドイツは反動の真の中心となったのである。自分の例にならって隷属を説いたり、ヨーロッパのあらゆる国に隷属を広めるために王子や王女や外交官を送るだけでは満足せず、この国は隷属そのものをも深遠な学問的考察の対象としたのであった。

都市のブルジョアに見棄てられた裏切られた農民は、貴族に打ち負かされて、何万人となく虐殺され拷問にかけられた。そしてドイツはそのあと静穏に入った。この国はイタリアと同様に、その後三世紀以上にわたって静穏に浸っていた。ただ両者の違いはイタリアが教皇と皇帝との同盟によって窒息させられていたのに対し、ドイツは独自の革命の重圧下にすすんで服従していたことである。
(略)
君主たちはいわばそれぞれの国家の神となった。もっとも彼らは自分の至高の意志に愚かにも酔い、この上なく頽廃した君主にふさわしく、きわめて粗暴で無知な神であった。そしてこの神の下にへいつくばった廷臣たる貴族がいた。(略)
一方粉砕され、虐殺された農民は、敗北と貧困と、キリスト教的隷従の説教者たるプロテスタントの牧師の教えによって、三重に愚かにされていた。

独伊同盟

イタリアとドイツのあいだに確立していた多少とも擬制的で神秘的な神聖ローマ帝国を利用するならば、もっとそれ以上のこともできたはずであった。イタリアの都市がフランドルやさらにその後いくつかのポーランドの都市とさえ結んだように、ドイツの都市もイタリアの都市と同盟したり連合することもできたかも知れない。もちろんその時は排他的なドイツ的基盤に立脚するのではなく、広く国際的な基礎の上に同盟がつくられるべきであろうが、そうなったらドイツ人のいくぶん鈍重で粗野な本来の力に、イタリア人の機知や政治的能力や自由を愛する気持がつけ加わることによって、この同盟が西ヨーロッパの政治的・社会的発展に今日とはまったく違った方向を与えたかも知れないし、それはまた全世界の文明にとってはるかに有益でもあったであろう。