生物と無生物のあいだ

科学者の文章の方が、文芸誌に載ってる文章より、ある種の文学的情感を湛えていることの不思議

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

ウイルス

 ウイルスは、栄養を摂取することがない。呼吸もしない。もちろん二酸化炭素を出すことも老廃物を排泄することもない。つまり一切の代謝を行っていない。ウイルスを、混じり物がない純粋な状態にまで精製し、特殊な条件で濃縮すると、「結晶化」することができる。これはウエットで不定形の細胞ではまったく考えられないことである。結晶は同じ構造を持つ単位が規則正しく充填されて初めて生成する。つまり、この点でもウイルスは、鉱物に似たまぎれもない物質なのである。ウイルスの幾何学性は、タンパク質が規則正しく配置された甲殻に由来している。ウイルスは機械世界からやってきたミクロなプラモデルのようだ。
(略)
 ウイルスは生物と無生物のあいだをたゆたう何者かである。もし生命を「自己複製するもの」と定義するなら、ウイルスはまぎれもなく生命体である。ウイルスが細胞に取りついてそのシステムを乗っ取り、自らを増やす様相は、さながら寄生虫とまったくかわるところがない。しかしウイルス粒子単体を眺めれば、それは無機的で、硬質の機械的オブジェにすぎず、そこには生命の律動はない。

『本』連載のためか「生物と無生物のあいだ」を深く追求していくというより科学エッセイというかポスドク・ブルースというか。
謙虚に淡々と研究を続ける負け組と、彼等の業績を横取りして栄光を掴む勝ち組の話。

オスワルド・エイブリー

小柄で宇宙人のような容貌、生涯独身、定年退職まで自宅と研究所の往復のみで過ごしたオスワルド・エイブリー

 エイブリーは自分の研究成果を誇示したり[しなかった](略)
エイブリーは謙虚だったが、しかし、その批判者たちは容赦なかった。形質転換物質、つまり遺伝子の本体がDNAであることを示唆するエイブリーのデータに最も辛辣な攻撃を加えたのは、なんと、同じロックフェラー医学研究所の同僚、アルフレッド・マスキーだった。(略)DNAのような単純な構成の物質に遺伝情報が担えるはずがなく、遺伝子の本体はタンパク質であるはずだと。
(略)[批判に心中穏やかではなかったが]それでもとりうる道はひとつしかなかった。できるだけDNAを純化して形質転換を実証するしかない。

 おそらく終始、エイブリーを支えていたものは、自分の手で振られている試験管の内部で揺れているDNA溶液の手ごたえだったのではないだろうか。DNA試料をここまで純化して、これをR型菌に与えると、確実にS型菌が現れる。このリアリティそのものが彼を支えていたのではなかったか。
 別の言葉でいえば、研究の質感といってもよい。これは直感とかひらめきといったものとはまったく別の感覚である。

 ロックフェラー大学の人々にエイブリーのことを語らせると、そこには不思議な熱が宿る。誰もがエイブリーにノーベル賞が与えられなかったことを科学史上最も不当なことだと語り、ワトソンとクリックはエイブリーの肩に乗った不遜な子供たちに過ぎないとののしる。

ロザリンド・フランクリン

不遜なワトソン達はX線結晶学が専門のロザリンド・フランクリンの研究を不正に入手し栄光を掴みながら、自著で彼女をダークレディと嘲った。

[ノーベル賞授賞式] 最も重要な寄与をなしたはずのロザリンド・フランクリンの姿はどこにもなかった。彼女は、彼らがそろってノーベル賞を受賞したことも知らず、そして自身のデータが彼らの発見に決定的な役割を果たしたことさえも生涯気づかないまま、この年の四年前の1958年4月、ガンに侵されて37歳でこの世を去っていた。(略)
 一説によれば、X線を無防備に浴びすぎたことが、彼女の若すぎる死につながったのではないかといわれている。

動的な秩序

 貝殻は確かに貝のDNAがもたらした結果ではある。しかし、今、私たちが貝殻を見てそこに感得する質感は、「複製」とはまた異なった何物かである。小石も貝殻も、原子が集合して作り出された自然の造形だ。どちらも美しい。けれども小さな貝殻が放っている硬質な先には、小石には存在しない美の形式がある。それは秩序がもたらす美であり、動的なものだけが発することのできる美である。
 動的な秩序。おそらくここに、生命を定義しうるもうひとつの規準(クライテリア)がある。

GP2遺伝子を欠損しているマウスの膵臓

 私はそれを顕微鏡のステージにおき、ダイアルをゆっくり回しながら徐々にフォーカスをあわせていった。ピンク色の視界が像を結んでいく。私は息を止めた。台形の膵臓細胞。丸い核。棒状のミトコンドリア。その中に散在する完全な球形をとった分泌顆粒。私はステージを前後左右に動かして視界をあらゆる場所へ次々と移してみた。核。ミトコンドリア。完全な球形の分泌顆粒。細胞の表情は静かで均一だった。異常はどこにも認められなかった。顕微鏡下、円形の視野に広がるGP2ノックアウトマウスの細胞はあらゆる意味で、まったく正常そのものだった。

なんの変哲もない文章なのだが、なんとなくいい感じに思えるのは、オレがおかしいんでしょうか。たぶんそう。
GP2がなくても問題がないということはGP2は不要なのか。同様にプリオンタンパク質をノックアウトしたマウスは健康そのもの。ところが一部が欠損した不完全なプリオンタンパク質遺伝子を与えられたマウスは異常になる。

 ピースの部分的な欠落のはうがより破壊的なダメージをもたらす。むしろ最初からピース全体がないほうがましなのだ。このようなふるまいをするシステムとは一体どのようなものなのだろうか。
(略)
ある場所とあるタイミングで作り出されるはずのピースが一種類、出現しなければどのような事態が起こるだろうか。動的な平衡状態は、その欠落をできるだけ埋めるようにその平衡点を移動し、調節を行おうとするだろう。そのような緩衝能が、動的平衡というシステムの本質だからである。
(略)
[不完全なピースの場合、そこにピースがあると判断され組織化が次の段階に進み、やがて不完全なピースの空隙のずれが大きなずれを生み致命的なダメージをもたらす]

私たちは遺伝子をひとつ失ったマウスに何事も起こらなかったことに落胆するのではなく、何事も起こらなかったことに驚愕すべきなのである。動的な平衡がもつ、やわらかな適応力となめらかな復元力の大きさにこそ感嘆すべきなのだ。
結局、私たちが明らかにできたことは、生命を機械的に、操作的に扱うことの不可能性だったのである。

エピローグは著者の少年時代の回想

待ちきれなくなった私は、卵に微小な穴を開けて内部を見てみようと決意した。もし内部が“生きて”いたらそっと殼を閉じればいい。私は準備した針とピンセットを使って注意深く、殼を小さく四角形に切り取って覗き穴を作った。するとどうだろう。中には、卵黄をお腹に抱いた小さなトカゲの赤ちゃんが、不釣合いに大きな頭を丸めるように静かに眠っていた。

というわけでセンチメンタルな気分で、肝心な科学の話とは関係のないとこを引用してサヨウナラ。