星川清司の大映話

主に後半から(前半は大映創生期の話色々)。

三隅研次市川雷蔵との出会い

[京都に呼ばれ初めて時代劇を書くことに]
 脚本「新選組始末記」の第一稿を読んで監督三隅研次は、「こことここのせりふは、あってもなくてもいいから、要らない」といった。
 他には何かないかと念を押すと、「ない」という。京都でいちばんうるさい監督だと聞いていたわたしは、いささか拍子ぬけした。(略)
[これでお役御免と安堵していたら上からの命令で突如撮影中止。うんざりしていると事態はさらに急変。雷蔵が脚本を気に入りカラーに格上げ]
 事情を聞いて、三隅はいっそう不きげんな顔。
 「役者の越権行為やないか」
 わたしはどうしていいかわからずに黙っていた。めんどうなことになったなというおもいが先に立った。
 三隅監督が怒っていると聞いたのかもしれない。その夜、三隅と辻企画者とわたしの三人は、鳴滝にある雷蔵の家に招かれて夕食を共にすることになった。
 三隅はずっと不きげんだった。辻がとりなすようなことをいった。わたしは雷蔵をはじめて見て、役者らしくない、品のよい商家の若主人のようなひとだとおもいながら
(略)
 市川雷蔵主演作品としての手直しはできないと、わたしはくりかえした。
「そういう技量はないんです、なにしろ時代劇一年生ですから」
 ですから、もし手直しが必要なら、他のひとにやってもらってくれと付け加えた。それで結構だからともいった。
 すると雷蔵が、いたずらっぼい微笑をうかべて、こういった。
 「いや、あれは一行も変えてもろたらいかんのです。あのままやりたいんです。そして、わたしはどの役でもいいから、主役でなくてもいいからやりたいとおもってます」
 それを聞いて、三隅研次の表情が和らいだ。辻企画者がうなずいた。わたしは、いささか殺し文句だなとおもいつつ、なんにもいうことがなくなった。
 けれど、そのときの雷蔵の一言と微笑が、雷蔵の死に至るまで、わたしたちを結んだ縁になったような気がする。

固辞するも結局眠狂四郎を書くことに。

執筆期間はたったの二週間

完成した作品「眠狂四郎殺法帖」は不出来だった。
 案の定だ、とわたしは、原作の設定を決して変えてはならぬという条件付きの仕事を引受けたことを悔んだ。脚本がよくないのだと監督に詫び、雷蔵にも詫びた。
(略)
[雷蔵が第二作も書いて欲しいと]
 断りつづけても承知してくれない。ヤケになってわたしは、原作の設定をすべてぶちこわさないかぎり書く気はないといった。
 三隅は、ではそうしてくれという。辻企画者があわてて手を振った。
 「そんなことはできない」と辻がいった、「原作どおりの設定だ」
 それなら書けないとわたしはいいつづけた。
 やがて押問答の末、監督と企画者の対立になった。原作者柴田錬三郎からは原作をたくさんもらっているので、条件を無視したら、大映という会社の立場がなくなる。(略)
[なんだかんだで著者が責任をとるということに]
 暁方に、こうなったからと雷蔵の家に電話を入れた。雷蔵の声がきこえた。
 「あなただけに責任はとらせないから」
 大映本社で、シリーズ第二作「眠狂四郎勝負」の試写。
 終の文字が出ると、原作者柴田錬三郎は不きげんな顔で出ていった。社長永田雅一も無言で出ていった。重役の一人が立ちあがって呶なった。
 「なんだ、こんなキザなもん作りやがって、眠狂四郎はもうやめだ」
(略)
[ところが朝日映画欄で賞賛、一週間後社長からこれからも頼むと]
 後日、企画者辻久一のはからいで、柴田錬三郎と一席ともにしたことがある。
 不愛想に原作者はこんなようにいった。
 「ま、映画だから、あれはあれで仕様がねえか、――狂四郎のねぐらが吉原裏の浄閑寺とは、うめえことを考えやがった」
 そして一言、付け加えた。
 「だが、おれはあんなふうにゃ書かねえよ」
 盃を交して鳧になった。
 こうしたことがあって、のちの眠狂四郎シリーズが原作に拘束されずに書けるようになった。
(略)
眠狂四郎の「虚無」を描いたつもりはみじんもない。(略)
 映画の眠狂四郎は、センチメントでダンディに見えればそれでよい。そうおもってわたしは書いた。

勝新太郎の「勘」

「心中あいや節」というテレビの座頭市シリーズのときにも舌を巻いた。(略)
たまたま、ドナルド・キーンのことに咄が及んだ。
 「つまらない市井の男と女が、道行にかかると、双方の背すじがすっと伸びる」
 近松のことを述べた一節に、そういうことばがあった。「背すじが伸びる」という日本人にもできないような表現がみごとだ、とわたしがいうと、勝が「それだ」と叫んだ。
 何をいいたいのか、すぐにわかった。そして、「わかったから、それ以上いわないで」とわたしはいった。それで二日待ってくれといった。(略)
 約束の二日のちに、わたしは、市と瞽女が生き別れになっている最後の件りを書き改めて渡した。
 その原稿を勝は読まなかった。そして、「おれが監督やりたいけど、それでいいか」といった。いいもわるいも、もう決めていることだ。監督と決っていた井上昭を嘆かせた。
 勝はさらに欲を出し、三十五ミリフィルムで撮りたいといい出して、雪の若狭にトラック十台をつらねて出かけていった。
 雪の中に宿屋を一軒、建てたのだという。

美術監督西岡善信との対談より

銀箔に硫黄

太田多三郎という人ですが、雷蔵主演の「忠直卿行状記」(昭35、森一生監督)という作品で、物凄く幅のでかい板戸を造ってですね、それを黒光りにして大きな龍を銀の箔で押してくれたんです。水谷八重子さんが母親役で、諌めにくる場面で板の間に二人がいて後ろには龍の板戸だけがあるような、それが狙いですがね。仕上がりを見に行くと、背景の部屋がシートで囲われてるんですよ。入っていくと臭いがするんです。中にいる背景のおじさんが、入ったら困るって言うわけです。そこへ硫黄を焚いてガスマスクをかけた太田さんが、貼った銀箔に硫黄の煙を吹き付けてるんです。部屋は硫黄の煙で充満してて吸ったら毒ガスです。こりゃ凄いと思いました。銀やから硫黄かかると変色するんですよ。茄子色というか銀が金色に変わって紫になるんですね。それ以上やると黒になるんです。ライトによって、絵では表現出来ないような異様な光が龍に出てくるんです。カメラの宮川さんもね「こりゃ人物なしでいけるな」と大喜びでした。

鑑識眼

星川 私が聞いた話ではね、溝口さんは世間で言われているほど古美術に対する鑑識眼はなかった。
西岡 いや、そんなこと言うたら溝口ファンから文句言われるかもわからんけど、物の見つめ方の違いだと思う。三巨頭に違いがあるとすれば伊藤(大輔)先生はどれもこれもじゃなしに、書なら書に対しては相当だったし、もともとクリスチャン的なものの見方から見られてました。他の二人は全く宗教的なものはなかったですね。人間性でなく、単に物の価値についてなら衣笠さんという気がしますけどね。

増村保造のケチ話。

タクシーワンメーター浮かすために走る。

西岡 (略)服装みても下着だけは替えたようやけど上は着たきり雀。靴はイタリアで買ったものやけど十年履いてて。文部省の留学で行ったときに買ったものらしいんです。旅館ではスリッパや下履きで家ではズックぐつで、電車に乗ってくる時はイタリアの靴でね。靴底も何回もはり替え「他に靴は買いませんよ。イタリアの靴一足です」ってね。「好色一代男」で紀伊半島にロケーション行った時も、旅館の食事の時に自分のお酒を飲み終わると「そこの人は飲まないんですか」「はあ」「いただいていいんですか」「どうぞ」。付き合いかねるなあ。どっか出て行って飲もうかってことになって「増村さん、行かれないんですか」「お酒はありますから」。ありますってね、その辺のを集めて飲んで監督のすることやないなあ(笑)。その他いろいろあって、見事というか、奇妙な面白い人でした。
星川 割り切りの早い人でしたね。「これは資料をいくらあさってもやりようがないから、大メロドラマ・新派大悲劇で行きましょう」。なんて平気で言うんです。

なんとなくワロタ

 晩年は田中絹代への恋情が溝口を苦しめた。
 片想いだった。生身の恋物語になると溝口は臆病だった。じれったくなった川口松太郎田中絹代を問いつめると、こういう返辞がかえってきた。
 「先生がわたくしを好いてくださるのは仕事の中のわたくしだとおもいます。結婚して先生への尊敬を失うより、あくまでも仕事のうえでの先生であっていただきとう存じます」
 しっかりした女だとおもったが、川口は、反撥もしたそうである。
 「男と女なんてものは、やったかやらないか、それできまるんだ。意気地なしだよ。尊敬するとかなんだとか、上品ぶってやがるからまとまらねえんだ」
 酔ったまぎれにそういって川口はくやしがった。
 そして溝口と絹代とは、仕事のうえでも気まずい別れになった。

[関連記事]

kingfish.hatenablog.com

kingfish.hatenablog.com