非モテか、差別温存か

前回のつづき。

フェミにかぶれてカミングアウトしたのだけど

 80年代フェミニズムでは、「性とは全人格的なコミュニケーションである」ということがよく言われていました。いまなら、それも一つの嗜好、性愛の趣味のありようでしょう、と反論するところですけど、まだ二十歳そこそこだったぼくには、理念というものを素直に信じられるところがありました。差別や力関係のない性愛と、豊かな性愛が同じだと思えた。それが誰にとってもそうであると思い込めた。で、自分も「男らしさ」にこだわらずに「自分らしく」あらねば、そうすることが正しいことなのだ、と日常の場で実践してみたわけです。

さあこれからは「自分らしく」オネエ全開で楽しいゲイライフと勢い込んだ伏見憲明だったが、「非モテ」という現実に直面。モテない、その理由は、オネエだから。モテるのは男らしいゲイなのだ。
自分らしくあるとモテない、

性愛という快楽を得るには「男」を演じなければならない。

 ここでコペルニクス的転回がありました。そうか、性愛というのは、人格以前に、その人が表象している性別のイメージ、つまりジェンダーをめぐる「欲望」なのだ、ということです。たしかに、ゲイであってもストレートであっても、まず、性的感情というのは、相手の性別認知を経て生じます。(略)
つまり、「自分らしさ」と性愛の論理は相性がいいとはかぎらない。当時フェミニズムの標榜していたことは誰かの理想の一つであるかもしれないが、性愛のゲームの中でそれを実践するとちっとも美味しくないことがわかったのです。

 それで、ぼくは、性愛とはジェンダー・イメージをめぐる「欲望」のゲームだ、という認識に至ります。

「男に従属する女」という構造をなくしていこうとするフェミからすれば、そのような構図を男同士で再現していることは差別構造の温存である、けしからん話となる。
差別撤廃・奴隷労働反対を叫ぶ人間が夜の営みでSMプレイにいそしんでエエのかというようなことだろうが、ここはカビラちっくに「いーんです」と叫んどきゃ、いーんじゃねえのと、オレは思うけど。
とりあえず快楽ダイスキな著者は

「フェミの正論」より性愛。

性愛ゲームにおいて、ジェンダー間に格差のある〈性別二元制〉を体現することは、既存のジェンダー秩序を再生産することになってしまうことにもなります。性愛を欲望したり実践することで自分自身を差別する構造を踏襲し、温存してしまうかもしれない。この論理の中では、自分の欲望が自分を抑圧するという差別のスパイラルにはまってしまうことになります。
 つまり、極論すれば、性愛を取るか、差別をなくすかの二者択一を迫られた、というふうに考えたわけです。性愛を生きようとすれば差別を再生産し、差別をなくすためには性愛を断念しなければならない。ただぼくはそのとき、どうしても差別をなくすために〈性別二元制〉を支えるジェンダー・カテゴリーを抹消しよう、とは思えませんでした。

おお、先週のリンカーン仕入れた二丁目流行語を使う時が
キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!
どんだけー!!
どんだけ好きなんだ。そんなにセックスが好きなのかあ。
そんな叫びをのせて2002年の自作曲でインターミッション。
「POLITICALSEX」
下記ボダンをクリックして聴けます。
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チーズ子・地下庫対談

上野 (略)みんなが中性的になるという社会ですか、としばしば聞かれるけれど。
小倉 それはいちばん大きな誤解ですね。よく言われる誤解。そうではなくてジェンダーはあってもいい、演じてもいい。むしろ「男制」「女制」は無形文化財として貴重な財産です。ただジェンダーという制度の中で、型通りの「恋愛」という安易で陳腐な関係を強制されるのは、あんまり見たくない。ジェンダーは行動の型、感情の型です。まずは、型から人間を解き放ったらいいんです。
上野 それも不徹底ですね。ジェンダー・カテゴリーそのものがなくなるんじゃないとね。

ビーフェイスとヒールのこてこてプロレスなんて古い、いや、やっぱりこてこて反則攻撃があったほうが盛り上がるけど、女だからヒールをやらされるのは嫌、ヒールだからギャラが安いのも嫌、やりたい役をやったらええねん、いや、断固撤廃、みたいな。どうでもいいけど。まあ、オメーラはそれでいいや。
だうも、タチネコシです

 ぼくらの日常の快は、ほとんどそうしたジェンダー・カテゴリーを基盤としたところから発生しているので、生きていることの楽しみが相当奪われて、(少なくとも現在のぼくらの感覚からすると)モノクロの世界にいるように味気ないものになってしまうのではないでしょうか。それは差別と同様に、不幸なことのように想像します。ここで、差別をなくしたいというところから発生した「欲望問題」と、日常に存在する「欲望」の多くは明らかに対立することになります。

ジェンダーフリージェンダーレスは違いますと村瀬幸浩

 ジェンダーというのは社会的・歴史的に作られた性差、性別意識のこと。つまり、男だから、女だからこうあるべきだと、性別によって分けられてしまう生き方。で、そういうものにこだわらない生き方がジェンダーフリーだと考えます。よく誤解されるのは、ジェンダーフリーだから男女の便所は同じでいいのとか、風呂もいっしょでいいのかと攻撃する人がいるのですが、それはフリーではなく、ジェンダーレスというんですね。ジェンダーレスは性差を一切なくしてしまおうというものですよ。(略)
ジェンダーで社会は成り立っているのは事実ですから、男と女の文化にそれぞれ一旦は適応させることも必要だと思います。その上で、それは自分に合わないだとか、そうしたくないという個人を許容していくことが大切だと。初めから男も女もないんだとやっていくのは、かえってアイデンティティを混乱させることになるのでは。
(『現代性教育研究月報」2003年8月号)

オクムラチヨ/コイノドレイ

そこでの性愛に充実を感じている人たちの目で見たときに、それは必ずしも支配と被支配の構図ではありえません。差別の痛みに囚われているときには、それは抑圧的な像としか見えないけれど、そういう感度がなければ、いくら性愛が差別で成り立っていると言われても、ピンとこないに違いありません。

イカホモ」の新鮮さ

 少し前、日本のゲイ・コミュニティでも「イカホモ」という言葉が流通しました。それはいかにもホモっぽいというルックスの人のことで、肯定的な意味合いで用いられています。もっとクローゼットな時代には、ゲイが他のゲイを求める際、「ホモっぽくない人」とか、「普通っぽい人がいい」ということがよく言われました。それは変態じゃない男、「本物の男」への指向でした。既存の〈性別二元制〉の中の〈男制〉への発情とぴったり重なります。しかし、この頃では、「イカホモ」を求める人が増えています。というか、「イカホモ」という言葉は、そういう指向の中で生み出されたものです。

――短髪でひげがあってそこそこ筋肉があってムッチリしていてラガーシャツなんかを着ている――自意識の上でも、ゲイであることを受け入れ、それを楽しんでいて、性愛における「男らしさ」がフィクションであることを感覚的に理解しているありようです。つまり、「真の男」と自分の間に隙間、遊びがあるという感性が、そのジェンダー表現にはある。(略)
ぼくの友人に「イカホモ」好きがいるのですが、彼に「なんでそういうタイプが好きなのか」と訊いたことがあります。彼はこう言いました。「雄っぽいんだけど、雌っぽさがあるところ」。どうやら、その友人のセクシュアル・ファンタジーにおける性的対象は、男らしい意匠の裏側に女性性のようなものが織り込まれているみたいなのです。そこに新鮮なものを感じました。これは一つの例ですが、そのように、ジェンダーも、セクシュアリティも更新されていく可能性は想定できるでしょう。

倫理ではなく喜びから変化が

これをもって、自分たちの気持ちよいものを追求した結果、よりよい状況を作り始めている、と言ったら、ぼくは楽観的すぎるでしょうか。しかし、確実に言えることは、ジェンダーは変化するし、禁止という倫理からではなく、楽しみや喜びの中から改編していくことができうるということです。そして、そうしたことはすでに異性愛の中にも起こってきていると思います。

次回は中国三千年の歴史を彩る男装女装の話の予定。