中国女装性転換史

中国では男装女装性転換は世が乱れる予兆でよろしくないことなのだが、逆に尽きることはないのであった。

唐代、繁栄により服装も大変化

 女性の服装における一例としては、胸を大胆に露出させるなど、セクシー感を求めたものが流行したことが挙げられよう。(略)
これとともに、女性のあいだで男装が好まれたことも、唐代服飾の特徴として挙げられる。(略)
 『中華古今注』は、「天宝年間になって、士人の妻たちは、丈夫の靴・服・鞭、帽子などを身につけて、男女の見分けがつかなくなった」と記している。
 男装は、まず宮中の女官たちのあいだで流行し、やがて民間へと広がっていった。

男の化粧

男性の化粧というものは、漢代にも認められるが、これが魏晋南北朝には、いっそう流行する。(略)
[『顔氏家訓』には]
 梁朝が全盛のころ、貴族の子弟の多くは、学問の素養がなかった。(略)着物には香を薫きこめ、顔は剃り、紅おしろいで化粧をしないものはなかった。
(略)
隋代には、節約を重んずる風潮から、男性は無論のこと、女性の化粧に関する記録も少なくなるが、唐代になるや、ふたたび化粧文化は隆盛し、むしろ中国化粧文化史にとっては、ひとつの輝かしい時代を迎えることとなる。
 化粧をする男たちは、その後も絶えることなく出現した。

明代末期においては、「色衣」「女衣」「紅紫の服」などと呼ばれる、男性の服としては派手なものであるとされた衣服を着用したり、帽子や靴においても、派手さを好む趨勢が、むしろふつうになっていたことが見て取れるだろう。かくして男たちのオンナノコ化の傾向は、第二のピークを迎えたのであった。

女装して潜入し犯す

[桑沖は谷才]を師と仰いだ。この谷才なる男は、女装して、各地で若い女性に家事を教えながら、ひそかに姦淫をおこなっていたのである。
 桑沖は、眉と顔を剃り、髪をととのえ、顔と体を女性につくりなした。さらに谷才につきしたがって、工芸、針仕事、飯炊きまで、女性がなすべきであるとされるあらゆる技能を身につけたのち、故郷に帰った。[そして七人の弟子を取った]

 かれは、どこに行っても、まずは良家の娘がいるところを、注意深く調べ(略)そこの家庭教師となる。女同士だからと、夜も一緒に寝るようにまでなるが、ついには、戯れごとをいって誘惑し、娘をその気にさせ、姦淫におよぶのであった。
 もしも娘がカタブツで、どうしても拒むようであれば、深夜になってから、ちょっとした手段を弄することにした。すなわち、「迷薬」なるものを調合し、娘に吹きつけてから「昏迷呪」なる呪文を唱えれば、娘は身動きもできなくなり、口もきけなくなるというのだ。抵抗できなくなった娘を、やりたいだけ犯し

[男に夜這いをかけられ正体がバレ]
 桑沖は、ノコギリで切り刻まれるという、凌遅の刑となった。弟子たちには「絶対におれを巻きこむなよ」と約束させておいて、自分が捕まるや、みんなの名前をべらべらしゃべってしまったというのだから、いささか無責任な師匠である。

女が男になるとき

 晋の恵帝の元康年間(291-299)(略)周世寧という娘がいたが、八歳のころからすこしずつ男に変わっていった。十七、八歳になると、性格もすっかり男となったが、女の肉体のほうはまだ変わりきらず、男の体としては不完全であった。その後、妻を娶ったが、子はできなかった。

 元代、山東省済寧のとある婦人、年は40ほどであったが、夫を亡くして数年後、突然、陰茎が生えてきた。毎日のようにその息子の妻を犯していたが、しばらくして息子が役人に訴えた。

マリッジブルーや「結婚恐怖症」で男に

乾隆46年(1781)[5歳で嫁として売られたが姑が厳しく13歳で実家に逃げ帰り、大人になるまで猶予をもらう]
 娘が17歳になった。張の息子も大きくなった。張が正式な結婚を求めてきたので、安も、娘を嫁に出す準備を始めた。娘はこのことを知ると、また姑の恐怖がよみがえってきて、毎日のように泣きわめいて、神様に「死なせてほしい!」と求めるありさまである。
(略)
 その夜、娘の夢枕に、ひとりの老人が現われた。手には弾丸のような球形のものを三つ持っている。ふたつは赤く、ひとつは白い。これを娘の口に押しこんだのだ。
 娘は、腹部が熱くなるのを覚え、また、のどに痛みを覚えた。ほどなくして、娘の股間から陰茎が生えてきて、男の体になってしまった。また、あごの下からはのどぼとけが隆起した。

男の肛門出産

 蘇州の50歳を超える男が、夜な夜な子供がそばにいる夢を見るようになった。ふと腹中に肉塊があるような心地になったかとおもったら、これがしだいに大きくなり、肛門からの出血が始まった。そして嘉靖四年(1525)の正月、とうとう肛門から男子を生み落とした。(略)男が肛門から出産したというケースは、中国の記録には、いくつもあるようだ。

女性美至上主義の流行

明清時期の戯曲や小説では(略)[男装女装もしくは]男性を女性的に描くことが流行する。(略)
 男だてらに、顔の色は「雪のように白い」のであり、唇は「朱砂のように赤い」のである。また、外見だけでなく、内面的にも、女性的な優しさや柔らかさといった性質が、才子にとって好ましいものとして形容され、女性美至上主義というべきものが支配的になる。その代表格は、清代の長編小説『紅楼夢』において、「女の子のからだは水で作られていて、男は泥で作られている」(第二回)、「山川日月のすばらしいエキスは、すべて女の子に集まっている。ヒゲや眉毛を生やした男は、汚れたゴミやカスにすぎないのさ」(第二〇回)と主張する、貴公子賈宝玉であろう。

男の身で授乳

小説集『八洞天』より。
政変で刑死&自害した主人夫婦から息子を託された召使の男、赤子は乳を欲しがり金はない

 「天よあわれんでくださいませ!ご主人さまの跡継ぎの命をお救いくだされ!」
 すると、不思議なことがおきた。何度も吐き気がしたかと思ったら、口中に唾がこみあげてきて、飢えも渇きも覚えなくなった。さらにしばらくして、胸のあたりにキュッと痛みを覚えたかと思うと、両の乳が、いきなりふくれあがってきたのである。王保が胸元を開いて見てみると、なんとそこには、ふたつの胸のふくらみが、山のように盛り上がっているではないか。しかも乳首からは、乳の液が流れ出ていた。
(略)
「ありがたや!これで小さなご主人も、生きながらえることができる。そればかりか、わしには乳ができたから、もうだれもわしが男の身だとはわからないだろう!」
[こうして追手を逃れるため赤子も女と偽ることに。復讐話の展開に宦官なのにヒゲがはえた男とその男装した娘がからむという]

明清時期のボーイズラブ

醜男として生まれた鈕俊の物語。かれは(略)道教神によって顔を整形され、絶世の美男子に生まれ変わる。かれは、男だけの世界であり、同性愛者のユートピアである宜男国に入り、科挙試験にトップ合格する。「昭儀」(本来は女官の一種)に選ばれた鈕俊は、国王の同性愛の対象となり、ついには「皇后」にまでなる。あげくの果てには仏様にまみえ、地獄の烈火輪に焼かれるが、絶叫したところで目が覚めました、というおはなし。

『明清社会の性愛風気』

 晩明以来、なかんずく清代には、異装癖(主として女装)は、たしかにたいへん普遍的な現象となっていた。この現象は、当時の社会において強烈であった、男性同性愛のブームと密接なかかわりを持つ。しかし、両者はまた、単純にイコールで結ぶことができるものでもないのである。清代の異装癖は、主として男性の審美趣味における女性化として表われており、また、これによって、娯楽サービス階級、とくに優伶たちの女装を普遍化させた。それらは社会の審美理想および文学芸術のいずれに対しても、強烈かつ深遠な影響をもたらしたのであった

引用予定箇所がもう少しあったのですが、体調不良で省略。
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