ゲイはあり、少年愛はなし?

ゲイを認めないのは差別だと強面になるのじゃなく、「男が好き」という欲望が社会から肯定されるように、妥協点をさぐっていけたらいいなという境地に伏見憲明はいかにして到達したか。

自分キチガイ

ぼくは自分のしていることが正義だと胸を張って言うつもりはない。(略)ゲイだということで差別も抑圧もされるべきではない、というイデオロギーを選択しただけなのだ。(略)
 親の思う通り生きなくとも、せめてごまかしつづけてあげるやさしさもあるのではないか、と非難する人もいるかもしれない。しかしぼくは、答えることのできない期待を抱かせ続けたくはない。いや、きれいごとを言うのはやめよう。ぼくは単に自分キチガイなのだ。義理人情に生きているのではなく、自分の価値観だとか理念を信仰しているのだ。親にしてみればなんて残酷な息子なのだろう。

弱者が「正義」をふりかざす場面

このように、はじめからぼくは同性愛の解放を「正義」の問題だと割り切ることはできませんでした。むしろ「私」という価値観を世に問う闘いだと考えようとした。だから、同性愛を「差別問題」とするのを目標としながらも、差別という言葉にどこか馴染まない感覚がつねにまとわりついていました。(略)
しかし、そうは思っていても、反差別運動の立ち上がりというのは、「痛み」が極点に達したところで爆発するものですから、またそうでないと、自分に「痛み」を与えている規範を超えられませんから、その現場の中では弱者の「正義」がむき出しにならざるをえないところがある。ぼくもやはり「正義」に支えられたし、それにかぶれている面も相当あったと思います。

同性愛者の言葉狩り

東郷健を肯定的に描いた記事の「伝説のオカマ」というタイトルにクレームがついた(東郷自身がプライドを持って「オカマ」を自称しているにもかかわらず)。
同じ同性愛者が「オカマ」に過剰反応して言葉狩りをする姿を見て、著者は「痛み」を根拠として世間と対峙してきた自分を見つめなおす事になる。
この件でシンポジウムが開かれ

議論を進めていくと、結局のところ問題は、何が差別か差別でないかを判定する権利は、当事者だけにあるのではない、という辺りに行き着いた。このときの議論を主導したのは、野口勝三氏だったのですが、彼は差別語の問題を超えて、反差別運動全体にある、弱者至上主義的な考え方を批判しました。

野口勝三の意見

 (略)この論理を徹底していくと、マジョリティはマイノリティから抗議を受けた場合、「弱者の意見を聞かないといけない」ということだけが、義務として要請されますから、適切な異議申し立てを逸脱したと思える抗議に対しても反論することができなくなってしまいます。
 「最も弱い弱者」とか「一番傷つきやすい人」というのは、理念として想定されるだけで、現実には存在しないんです。存在するのはあくまでも、特定の「問題意識」から見出される個別の弱者です。そして、この「問題意識」が妥当なものかどうかは、互いの議論の結果、同意として得られるものであって、それはマジョリティの一方的な反省によって導かれるものではありません。(『「オカマ」は差別か』2002)

「痛み」があるから「正義」とはならない

という意見に著者は

 これは当たり前の話のようですが、ぼくのように反差別運動のスタートに関わった人間には、返し刀で、活動の出発点が間違っていたかもしれない、と言われるに等しいことでもあります。(略)
「痛み」を解消するための行為は「正義」でしかない。それを差別と同定したときに「正義」は自分たちの側にあることになります。それに対して、「痛み」の訴えだけではそれは「正義」にはならない、「正義」かどうかは、その訴えが当事者ばかりでなく社会の中で議論された結果、事後的に決定される、と言われたわけですから、それまでの自分たちの主張そのものの根幹が問われることになります。

この社会は自分を抑圧するだけの敵だ、という見方自体が間違っていたことは確かでしょう。少なくとも社会は全否定するようなものではなかった。

「欲望問題」としてみる

「差別問題」とすると正義をふりかざしたり強面になりがちなので「欲望問題」としてみる

 ぼくの場合、素朴に「正義」と思ってはじめたことではなかったけれど、それは「利害」の調整によって受け入れられ、そこではじめて正当な訴えだったことが確認されるものだ、と納得できました。そのときになってやっと、ぼくはこの社会を他の人たちとシェアしている感覚を得られたように思い返します。そうして考えてみると、自分が経験したことを「差別問題」とするのではなく、「欲望問題」として捉えるのが適切だと、いま、痛感するのです。一つの欲望の社会における可能性の問い、「欲望問題」として始まった同性愛の生存が、結果として同性愛者以外の人々との間に了解が得られ始めているのだ、というふうに見えてきたのです。それは最初から「正義」としてあったのではなく、自分の欲望を実現したいという声が発せられた結果として、正当な訴えとしての理解を生みつつある、とするのが客観的な見方なのではないでしょうか。

欲望実現を訴える自分が「少年愛」を否定できるか?

「男とヤリたい」という欲望実現を訴えるという方法を取ろうとする著者が直面した問題。それは「少年愛」という欲望を持つ読者からのメール。著者は悩む。
小二男児とヤリたいと思うのは病気だ治療しろとは言えない。なぜなら「ゲイは治療しろ/できる」という歴史があり著者は当然そんなのは無意味だと思っている。
じゃあ、「君の欲望は男児とヤルことか、わかるよ」と肯定できるかといえばできない。「男とヤリたい」自分の願望は肯定するくせに小児愛者の欲望を肯定できないのはどうなのか。小児愛者にアウトの「線引き」をし、同性愛者を社会から認知された側に入れてしまってよいのか。その違いはなんなのか。著者は少年愛者のメールに明快に回答できない。

 その線引きが、偶然その欲望を胚胎してしまった人々にとってもまた、暴力的な力であることは、前に言ったように、ぼくにもよくわかっています。地続きでしかない彼らと自分の間に分割線をいれなければならないことは、個人的な心情としては胸が痛いです。もっと言って彼らに同情を禁じ得ません。しかしそれをしなければ自分の自由生かす場としての社会を壊すことになりかねない。社会は個人を生かす場であるべきだけれど、社会なしではぼくらは生きられません。どんなに観念の世界でそれを否定しても、人間が人間である以上、社会という枠組みは必要でしょう。もし線引きをせずに解決する方法があるのなら、それを追求すべきだと思いますが、その代案がないとしたら、無理矢理にでも受け入れられるものと受け入れられないものとの線引きをせざるをえない(もちろんそうでない可能性をどこかに残しつつも)。
 彼らの「痛み」に切ない思いを馳せながらも、ぼくはその強制力を行使することに賛成します。

カミングアウトしてみたが非モテに直面した著者がジェンダーフリーに物申す話は、明日に続く。
kingfish.hatenablog.com
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