ライ麦畑のキャデラック

「クルマが重要な小道具として登場する32編のアメリカ小説を、文学好きの著者が、外車専門の修理人をガイドにしながら読み解いていく」

羊たちの沈黙」のトランクの中の被害者は何故やけどをしていたか。

1970年に排ガス規正法が制定され

[有害物質を]二次燃焼させるための、触媒型マフラーを従来のマフラーの手前に組みこむようになった。それからというもの、床下から発生する熱量がにわかに増したというわけである。
例えばの話、エンジン内で燃焼して出てきたガスの温度は、せいぜい摂氏400度から高くて500度ぐらい。それをマフラー内の触媒に反応させて再び燃やすと、温度はさらにあがって摂氏600度にもなるという。しかし人目に触れにくい床下に装置があるため、高熱を放つという事実はつい見逃されてしまう。

映画でもジョディ・フォスターが乗っていたかは知らないが、とりあえず原作では

フォードのピントに乗っている。

スペイン語でまだら模様の若馬を意味する。でもこのピント、どこか名前負けして縁日の夜店にならぶ玩具みたいに安っぼい。本国でも魅力に乏しいアメリカ版軽乗用車という印象は拭えなかった。(略)
[燃費の良い日本車が市場を席巻した時期だった]
そして巻返しに腐心した結果が、主張を抑えた日本車の真似っ子・ピントだった。言うなればピントというクルマは、「自信を無くしたアメリカ」を象徴していたのかもしれない。
実際この小型車は色気のなさゆえ、短命に終わった。しかし作家トマス・ハリスは、寮の部屋をシェアーするつましい訓練生スターリングを描くのに、ぴったりな道具だてと目星をつけたのだろう。

このピントの燃料タンク欠陥を追及したのがあのラルフ・ネーダー
「リコールするより、火災事故のたびに賠償金を払ったほうがマシ」というフォードの秘密文章が公開されて、330億の懲罰的賠償の判決が下りる。


『路上』1948年のハドソン

自動車黄金期の50年代を迎えるとハドソンを含む中堅4社は、48年に25%近くあった市場シェアーを一気に4%まで落とす。ビッグ3が仕かけた大衆車(2300ドル前後)の大型デラックス化戦略に敗れてしまったのだ。まさにあのビュイックを台風の目とするフィフティーズのけばけばしいデザイン旋風は、こうした背景に産み落とされたあだ花だったといってもよい。そして、ケルアックの『路上』に登場するハドソンは、競争にあがき苦しみだす嵐の前をすり抜けた最後の幸運な“花”だったという気がしてならない。こうして業界再編が進むと1954年春にハドソン社とナッシュ社が合併して、チェロキーやジープを切札にしたアメリカンモータースに生まれ変わる。(略)けれどそれさえもやがてクライスラー社に吸収され、ハドソンはいよいよ名実ともにきれいさっぱりと散ってしまう。

自動車王ヘンリー・フォードとトラクター

小学校を出ると家族農場に徴集され、16歳までそこで過ごす。だがある日、野良仕事のやりがいのなさにため息をつく。(略)馬の尻に毎日ついて歩くノロマな農作業に、げんなりしていたのだ。20歳を過ぎたヘンリーはすでに蒸気式トラクターまで直せるプロの機械青年になっていた。そんなある日、農家に豊かな暮らしをもたらす、新しいトラクターの開発に着手する。広大な農場をミシガンに買い求めた彼は、トラクターのアイデアをいくつかそこで試しながら本格的な農業機械化に取り組む。1901年には38歳で自動車会社の開発責任者に就任する。
T型フォードが誕生するのはそれから6年後だ。
[そして大成功]
そんな忙しいさなかにもトラクターの開発は怠らず、夥しい数の試作車テストが農場で繰り返されたという。(略)
結局、トラクター開発にのめり込んだヘンリーは1915年、ヘンリー・フォード&サンなる別会社をつくる。そして農民のような暮らしに舞い戻り、畑から発想した 「FORDSON」なるトラクターを全米ばかりか祖父の故国*1にもぞくぞく出荷した。

1927年に“This is a two-car country”と謳った

GM社長アルフレッド・P・スローン。

辣腕のスローンは第二次大戦直後、来るべきクルマの未来像として3つのテーマを描いた。①スタイル②自動変速機③高圧縮エンジン。
①のスタイリングに間しては、デザイナーのハリー・アールに一切を任した。その結果として生まれたのが、ジェット機のごとくはったりをきかせた流線型スタイルのクルマたちだった。だが、けれん昧たっぶりのこれら50年代車のシリーズは、どれも実質的な斬新さを欠くうわべだけの代物だった。それゆえに、実力派の自動車デザイナーだったレイモンド・ローウィーからは、「走るジュークボックス」とこき下ろされてしまう。
それとは逆に技術面でGM社を地道に押し上げたのが、天才肌の技術師チャールズ・ケタリングだといえよう。事実、彼の残した発明品は数知れない。たとえば当時の重いクランク棒による始動方式を、ボタン一つで楽に回せるセルフスターター式に切り替えたのだ。それまでクランク棒を力任せに回せば、時として顎の骨を折るくらいの危険も伴った。ケッチンと呼ぶバックファイヤーで逆転点火が起きて、鉄のクランク棒が強烈なパンチを浴びせたからだ。冷えたガソリンと空気が混じって、混合比を狂わす結果だった。ましてや雨の日の始動は厄介このうえない。
完成したセルモーターは早速新しいキャデラックに組み込まれた。

トミーガンとカポネ

軽機関銃=トンプソン銃がそもそも暗黒街に流れた契機は、戦争特需をあてこむ銃器メーカーの作りすぎにある。銃器狂いのトンプソン大佐は、この塹壕兵狩り用兵器の開発に、50万ドルという巨費を注いでいた。けれど大戦は思ったより早く終わり、大量の在庫が行き場を失う。そこで仕方なく民間の自警団組織や、ストライキ現場で活動家に手を焼く炭鉱経営者向けなど、市民社会での威嚇用具として盛んに売りこむこととなった。ニューヨークのオート・オードナンス社はことに熱心で、1922年1月のニューヨークヘラルド紙上にマシンガンの売り込み広告を堂々と掲載した。そこには「組織的な強盗や犯罪者集団からの確実な防衛」というコピーと共に、奇っ怪なイラスト画が添えられていた。カウボーイ姿の牧童頭が家畜を奪いにきた窃盗団を月夜に見つけ、腰だめにしたトンプソンを撃ちまくるという物騒な図である。
かくしてこの軍用トンプソン銃は、本体わずか175ドル、弾倉50ドルというお手頃価格で巷にいよいよ売りだされる。それがギャングの手に渡って市街戦さながらの流血劇を初めて演じたのは、この広告から3年後のことだ。

フロリダ生まれのワニが日本軍を襲う

1920年当時、フロリダの岸辺には開発の手がほとんど入っていない。未開の湿原は今よりはるかに広く、ハリケーンが襲うたび、低湿地の集落は水中に沈み、家を流されたり命を落とすものが続出した。とりわけ26年と28年のハリケーンの爪あとはすさまじかった。当時は災害現場に駆けつける救助車両がなかった。生い茂る水草と喫水の浅さにボートは進路を妨げられ、沼地は重い車を容赦なく飲み込んだ。(略)
ドナルド・ローブリングは、クローラー式トラクターに、箱状のアルミで浮力を持たせる画期的な救命車両を考案した。クローラー(商標登録名はキャタピラー)には水かき状の突起を刻み水上もらくらく進めるように工夫すれば、スクリューが要らない。まさにこれは、接地圧力を分散して沼を這い、手足の小さな水かきで水面を泳ぐ、水陸自在なワニの形状に等しい。(略)
構想から丸8年。岸と船とを結ぶ理想の救助車は、嵐が来るたび試されて、1937年についに完成した。これが『ライフ』訪に写真入りで紹介されるやいなや、軍関係者が早速訪ねてきた。陸軍は2万ドルの資金提供を申し入れ、さらなる改良を加えたプロトタイプが誕生。軍では200両もの大量発注を行なった。新型車のアルミの車体には鉄の装甲板がかぶせられ、総重量が15トンに達する代物だった。これを水上に浮かべて時速10kmで走らすために110馬力のエンジンが搭載された。(略)
量産体制に入った俗称『アリゲーター』は、カリブ海プエルトリコのヴィエカス島の基地に運び込まれた。ここでアメリカ軍は本格的な上陸演習を重ねた。
日本の軍人の誰が、鉄のワニに乗った海兵隊員の上陸を予想しただろうか。ガダルカナル島硫黄島、沖縄の海岸から弾幕をくぐって、ワニが続々と上陸して日本軍を襲った。

  • 豆知識

オーバーヒート

素人が絶対にしてはならないのが、オーバーヒートした車のエンジンルームに顔を突っ込むこと。危ないと思ったら、ボンネット自体もなるべく開けずにおくほうが良い。そうやって最低でも30分は、エンジンとのぼせた頭も冷やす。(略)
「つまり、煙が出てるからって、すぐにボンネットを開けると、一気に空気が流れこんでフラッシュバック現象というのが起きる。いきなり火を吹いたりするんです。だから、中の状態がわからないで、開ける時は、必ず逃げられる体勢で開けろって、わたしは若いメカに教えています」

ノーマルタイヤで雪道

荷物すべてをトランクに移し、友人にも狭いトランクに無理に座ってもらい、積雪10cmの峠道をそろりそろり登り始めた。すると、ノーマルタイヤでもどうにか峠を抜けられたというから驚きだ。
こうした離れ業がかなうのも、車軸より後ろのオーバーハング部に重みをかけると、後輪駆動のタイヤの接地圧がテコの原理でぐんと増し、スリップを抑えられるからに他ならない。(略)
ついでに2つの技を伝授しよう。
穴の多いホイールにタイヤを装着している車だと、その穴にロープを通してタイヤを幾重にも巻く。短時間なら仮タイヤチェーン役がこれで勤まる。最後の手立ては、タイアのエアーを抜いて空気圧を減らしてしまう方法。タイヤが横にプックリ膨れ出すくらい空気圧を落とすと、積雪路面からの脱出もどうにか図れる。

雨の日の手洗い洗車は早くて安くて仕上がりが美しいとのこと。