評伝ウェイン・ショーター

出版元は当然、そーかw。
内向的で将来は画家かイラストレーターになりたくて、15歳のときに54ページに及ぶSFマンガを完成させてたショーター。

フット・プリンツ

フット・プリンツ

40年代半ば、スウィング全盛、当然モテるのもスウィングをやる奴等、でもショーター兄弟はそんな「ぬるま湯」音楽はまっぴらとビバップ極道

「ショーター兄弟はいつも浮いてたね。ふたりの服装は他のみんなとは違っていた。パーティーでも、おれたちはカジュアルな格好をしてるのに、ふたりだけはまるで墓堀人みたいに、3ボタンや4ボタンのダーク・スーツを着込んでいるんだ。(略)
ショーター兄弟は、社会に迎合しないことを自ら公言していた。ウェインは“ミスター変わり者”と、アランは“ドクター変人”と、それぞれの楽器ケースに描いていたのである。ラジオのDJがビバップを悪魔の音楽扱いし、番組の選曲リストから外していることを知り、ふたりは自分たちのバンドが反主流派であることをなおさら大切に思うようになった。

楽譜に頼るナットたちダンス・バンドと違い、ビバッパーたちの頼りは自分の耳だった。自らの耳がどれぐらい優れているのかを誇示するために、ショーター兄弟は楽譜スタンドの上に、持参した『デイリー・ニュース』紙を開いて載せた。「ビパップの音は実に新鮮だ」--そう書かれたその日の新聞の見出しを客席から見えるようにして。ウェインが当時を振り返る。「会場に入る前、僕らはスーツが皺だらけになるように、わざと湿らせて、くしゃくしゃにしておいたんだ。服なんかどうでもいいっていう感じを出したかったからね。バップ・プレイヤーはそういうふうに見えないと駄目だって思ってたんだよ。確か、雨靴を履いてたんじゃないかな---もちろん、雨なんか降っていなかったよ」。アランは洒落者を装い、子ヤギの皮でできた白とグレーの手袋を着けた---しかもはめるときは、手袋に指を1本ずつ、わざとゆっくりと入れていった。

モテたいっすね

高校時代のウェインはニューアークの黒人中流階級の価値観に染まり、自分の家庭が貧しく、「少し傾いている」建物の2階を間借りしていることを恥じていた。「アラン*1もそうだったように、僕も高校で女の子の気を引きたいと思ったときに初めて、階級というものを意識したんだ。僕は自分の中の他人にはないところ、貴い部分を見てもらいたかった。でも、女の子たちはそういうのは見てくれなかった。黒人の女の子はみんな、肌の色の薄い、いわゆる“ハイ・イエロー”だった。髪の毛もきれいで、黒人と白人のスタイルを合わせたような髪型。肌の色もいい感じで、なんて言うかな、バニラとかカフェオレみたいなね。住んでいる地区もモンクレアやサウス・オレンジといったニュージャージーのわりと高級な地区で、彼女たちはいい家の“優等生”が好みだったんだ。靴は白や茶のバックスキンで、シアサッカーのジャケットを羽織るような“好青年”だよ。

アインシュタイン

[学費を稼ぐため]もっと効率よく稼げる小編成のバンドが必要だと考え、アーツ・ハイ時代の友人でベーシストのエディ・ホワイトとグループを結成することにする。エディは奨学生としてプリンストン大学に通っていた。プリンストンには当時、彼を含めて2人しか黒人学生がいなかった。ウェインは彼を訪ねてプリンストンにしばしば足を運んでおり、当時教鞭を振るっていたアルバート・アインシュタインが庭の芝の上を歩く姿を見かけたこともあるという。

50年代半ば、マンボが大流行。モテたくて自作マンボ。

オリジナルのマンボ曲のおかけで、ウェインのバンドは高校の卒業パーティーに引っ張りだことなる。そして、その人気に後押しされて、マンボの王様、ペレス・プラードのステージのオープニング・アクトを務めることになった。(略)
1955年の大ヒット「チェリー・ピンク・アンド・アップル・ブロッサム・ホワイト」でその人気は頂点に達する。ただしこの成功のおかけで、プラードはニューヨークのヒスパニック系コミュニティーの人々からの信頼を失う。昔からのファンは、プラードが売れ線に走り、かつての切れ昧が失われた、と失望したのである。(略)
[さらにコアなマンボ信奉者たちのメッカ52丁目パラディウムに出演]
ティト・プエンティとティト・ロドリゲス、それとセリア・クルーズもいた。フィッシュテール・ドレスに身を包んでいたのを覚えている。
[数年後ヨーロッパ・ツアー中に再会したティトが凄いプレイだったと褒めてくれた]

徴兵

クラッシック音楽を学んだおかげで、ジョニー・イートン・アンド・ヒズ・プリンストニアンズとの仕事がもらえた。基礎ができていたからこそ、マンボ曲を書き、プレイすることにも柔軟に対応できた。だがウェインの心には常に、ニューヨークのジャズ・クラブを中心に盛り上がりつつあったハードコア・パップ・シーンヘの熱い思いがあった。50年代のジャズ界はまだまだ、才能さえあれば誰でも注目され得る世界であり、ウェインもこの頃から“ニューアーク・フラッシュ”という愛称で呼ばれ、その実力が人々の噂になり始めていた。ところが、ちょうど評判が立ち始めた頃に、彼は陸軍に徴兵される

入隊数日前カフェ・ボヘミアでのアート・ブレイキージャッキー・マクリーンetcセッションに飛び入り参加

霊柩車が1台現れて、だれかと思ったら、ジミー・スミスでオルガンを積んできたんだよ!ああ、もうすぐ陸軍に入るから、こういう凄い人たちを二度と見られなくなるんだと思ったら悲しくなってきて、『くそっ』なんて言いながら、やけ酒をしていたんだ」。ところが、ウェインを見つけたドラマーのマックス・ローチが話しかけてきたという。「ニューアークの子だろ?ニューアーク・フラッシュ、そうだよな?噂は聞いてるよ。ホーンは持ってきたんだろ?」。ウェインはすぐさま車に戻り、サックスを持ってきた。
[死を覚悟して入隊したら、すでに戦争はなく退屈な日々。配属先のフォート・ディックスではシダー・ウォルトンと出会う。]

観客を意識したステージ衣装。スーツから靴下・下着まで揃いのジャズ・メッセンジャーズ。ソロの際にジャケットの袖がまくれて見えるカフスにはJMのロゴ。

あの頃は「大酒とハード・パップ漬けの日々だった」とウェインが言うように、メッセンジャーズは多忙な日々を送っていた。さまざまな意味で、50年代末はジャズ・ミュージシャンにとって理想的な時代だった。ビートルズの北米襲撃はまだ先のことで、ジャズは依然としてポップ・ミュージックであり、ブロードウェイでミュージカルを楽しんだあとはバードランドやアポロ劇場といった“流行スポット”に向かうというのが遊びの定番だったのである。バードランドの客席には「ピーナツ・ギャラリー」と呼ばれる一角も設けられていた。割安の料金で座れる席が10ほど用意されており、ティーンエイジャーの男女が朝までコーラを飲みながら過ごすこともできた。

アフリケイン

アフリケイン

不遇の死を遂げたレスター・ヤング

アルバム『アフリケイン』に収められたもう1曲は、その年の3月15日に亡くなったレスター・ヤングのために書かれたものである。この曲「レスター・レフト・タウン」は鎮魂歌なのだが、暗い印象はまったくない。ゆったりとした下りのメロディーが印象的な同曲は、レスターの独特な歩き方をイメージして書かれている。ウェインによれば、レスターに初めて会ったとき、まず目についたのがその特徴ある歩き方だったという。「あの曲はレスターの歩き方を表現しているんだ。すごくクールなんだよ。両足をあまり上げずに、つま先を少しだけ内側に向けて歩く。内股の一歩手前という感じかな。『おっ、プレズのお出ましだ。歩き方で分かるよ』と、みんなでよく言ってた。で、レスターがやって来る。ギグ・バッグを抱え、ポークパイ・ハットに黒いロング・コートを羽織って、気ままにのんびりとした調子で歩きながら。『よお、これでいいんだろ?そうだよな?』と言いたげな表情を浮かべてね」。

ジミー・スミスグラント・グリーンで儲かっていたブルー・ノート。

ルフレッド・ライオンが、もうワン・テイク、今度はもっとバック・ビートを効かせてやってくれないか、と要求した。
「もっとダウン・ホームな感じにしたいのか?」とリー・モーガンが訊いた。
「そう、もう少しグリースの効いた感じにして頂くことはできないかな?グレイヴィー(・ソース)を加えたような」。ドイツなまりのアクセントに、ヨーロッパ出身者らしい丁寧な言葉遣いにジャズ用語を混ぜた奇妙な表現で、アルフレッド・ライオンが答えた。
「つまり、もっとコマーシャルにして欲しいと言っているんだ」と、フランク・ウルフが通訳した。
すかさずライオンがウルフをたしなめた。「そんな言い方じゃ、身も蓋もないじゃないか!」
ここでついにアートが自らの意見をはっきりと口にした。自分がセッションの実権を握っていることを知らしめるために。「ここは我々の専門領域だ。御託を並べるのは、サウンド・ブースの中だけにしてくれ」

ショーターが欲しいマイルス。でも先輩ブレイキーのメンバー、手出しはできない。

1961年、彼はウェインのニューヨークの部屋に初めて電話をかけている。ウェインが受話器を取ると、誰かが複雑なコード進行の曲を弾いているのが聞こえてきた。まるで僕が書いた曲みたいじゃないか。そう思いながらウェインは演奏に耳を傾け、その素晴らしさに魅了された。数分間に渡って演奏が続いたあと、マイルスがついに口を開いた。「ギターはクソだな。そうだろ?」ウェインがこれに同意すると、マイルスが訊いてきた。「お前、今のところで満足してるのか?」「ねえマイルス、ベネディクト・アーノルド*2みたいな男を好きなやつはいませんよ」。それがウェインの答えだった。マイルスは、メッセンジャーズのショーにも何度か足を運んでいる。彼は最前列に陣取ると、ソロを吹くウェインのことをヴードゥーの魔術をかけるかのような鋭い目つきでじっと見つめていた。フレディ・ハバートは言う。「理由が何であれ、マイルスにあんなふうに見られる相手がおれじゃなくて良かったよ」
[しまいにはツアー先にまで電話してきて、電話口のブレイキーに、マイルスですけど、ショーター君お願いしますと言っちゃう始末]

クレバーなショーターが「そーか」の暗黒面に堕ちていく話は明日につづく。
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*1:ウェインの兄

*2:アメリカの独立戦争でイギリスに内通していた将軍