激論:バップはジャズを駄目にしたか

凶器になりそうな『ダウン・ビート』集大成から勝手なタイトルで。1940年代にもうジャズは死んでいたのでありました。いつの時代もヤングは生意気なのだ。

  • 1947.09.24

バップの創始者

テディ・ヒルが語り始めた。彼はセロニアス・モンクを見ながら言う。「なあ、いいかい、ここにいるのはビ・バップの創始者として認められるに誰よりふさわしい男だよ。本人はそれを認めないだろうが、自分に与えられるべき栄誉が他人に行ってしまってることに対しては内心割に合わないものを感じてるはずだ。だが今出て行って単なる二番煎じ扱いされるよりは、セロニアスは新しいものを作り出す方を選んだんだ。僕が思うに、あいつはきっといつかバップみたいに先進的な音楽を生み出したいと考えてるに違いないよ。

  • 1948.04.07

バップが先に自滅しない限り、

業界はバップによって滅ぼされるだろう

ルイ・アームストロング

きっとまた世の中は俺たちのところに戻って来るよ、だってあいつらは自分で曲を作れないんだからさ。連中に出来ることと言えば、地のデザインが分からないくらいにごてごて飾りをつけちまうことくらいなんだから(略)
あいつらはいつも「ジャズは死んだ」って言ってるけど、きっとまた必ずみんなジャズに戻って来ることになるのさ。

  • 1949.09.09

バップのルーツはジャズじゃない

チャーリー・パーカー

バップ・バンドにとってビートは常に音楽と共にあって、依存したり、支えたりしてるものなんだよ。時には音楽を後押ししたり助けたりもする。助けるって言うのが重要なポイントなんだ。ジャズと違って連続したビートはないし、規則正しいダン、ダンなんていう刻みもない。だからバップはジャズに比べてもっとずっと柔軟性に富んでるんだ」
(略)
[ビッグバンドだと編曲に凝りすぎてバップが台無しなるから距離を置いてるが、「火の鳥」に触発され交響楽的スケールのビッグ・バンドを構想]
「ストリングスは使い方によって荒々しい音を引き出すことも可能だし、実に様々な音色が出せるんだよ」

  • 1949.10.07

バードは間違ってるよ、バップはビートがなくちゃ

ディジー・ガレスピー

バップはジャズの一部だ。そしてジャズ・ミュージックは踊るためにあるんだよ。今プレイされてるバップのフォーマットの問題点は、誰もそれに合わせて踊れないってことなんだ。あの4ビートがみんなには聴こえないんだよ。みんなが踊れるようにならなきゃ、バップがより幅広いオーディエンスに支持されるようになることはあり得ない。

  • 1950.10.06

質の悪いバップがジャズをダメにしている
レニー・トリスターノ

質の悪いバップを大衆に与えてしまったら、彼らは本物よりもそっちの方を聴くようになってしまうだろう。ジョージ・シアリングが耳馴染みのいいメロディの間に彼のバップをサンドイッチの具みたいに挟み込むことでジャズを助けたと言えるかい?(略)
チャーリー・パーカーがどんな目に遭ったか考えてごらんよ。彼はメロディを前面に押し出したレコードを何枚か作った。それが売れたものだから、彼は一般大衆の大いなる期待に応えなければいけなくなった。そこで彼らはチャーリーをバードランドに引っ張り出し、同じものをストリングスと一緒に演る羽目になった。でもそこでの彼のパフォーマンスは満足のいくものじゃなかった。

  • 1951.06.01

本物のジャズは芸術だ

(チャーリー・ミンガス)

未来のラヴェルドビュッシー、あるいはストラヴィンスキーになり得るかも知れない才能豊かな若者たちを、音楽が何段階も進化したことを証明するチャンスも与えることなしにそのまま埋もれさせていいのだろうか?こうした歴史上の偉大な作曲家たちと並び称されるにふさわしい才能を持った作曲家たちが、彼らの内なる自分や真の感情を表現することなく、事もあろうにご婦人方がメイベルのガードルを穿く時のB.G.M.などばかり書かされ続けながら墓場に送られようとしているのだ。

  • 1954.10.06

マンボ!ティト・プエンティと踊りまくる

人はリズムに合わせて踊るものだろう。マンボ人気に火が点いたのは、パワフルなリズムが格好のダンス・ミュージックになったからじゃないかな。更なる成功の要因は、ジャズの持つ要素とマンボとのコンビネーションだね。例えばバップはそれ自体ハーモ二ー的にはクレイジーサウンドを持ってるけど、リズムに関して言えばとても踊りやすいとは言えないだろう。だからバップ・バンドはコンガ・ドラムを入れて、自分たちの音楽にマンボのフレイヴァーを加えてるんだ。
同じように僕のバンドでもジャズ的な要素を取り入れているよ。アレンジでもディジー・ガレスピーやスタン・ケントン的なアプローチでモダン・サウンドを利用してるしね。でもラテン・リズムの真髄は決して失ってはいないんだ

  • 1955.11.02

マイルスのズバリ言うわよ

ブルーベックよりディジーが弾くピアノの方が聴きたいに決ってるだろう。何故ってディジーの方がピアノの触り方を知ってるし、弾き過ぎることもないからね。大抵のピアニストはピアノには88鍵あるって事実に囚われてしまって、どうしても弾き過ぎになるんだ。

レニー・トリスターノにはまた別の問題がある。彼個人はとても素晴らしいと思う。絶えず新しいことをやろうとしていてね。でもグループで演る時にはそれがかえって災いして、ベーシストはレニーが一体何をやろうとしているのか予想もつかないわけだ。

チャーリー・ミンガスやテオ・マセロが少人数のグループ向けに書いてるような曲については、そうだな、つまらない現代芸術みたいだったり、何だか気が滅入るようなのもあるね。ミンガスはもっと良い曲が書けるはずだ。彼がライオネル・ハンプトンのために書いた”ミンガス・フィンガーズ”は俺が今まで聴いたビッグ・バンドのレコードでも最高の部類に入るものだったけど、彼は恐らく今後あれと同じようなナンバーを書くことはもうないだろう。その理由のひとつは、彼の最近の曲は誤った楽器編成で書かれてるってことだ。例えば不協和音を取り除くためには、低音域のホーン・セクションを入れればもっとずっと音のバランスが良くなるんだよ。
(略)
ミンガスがシナトラに曲を書いたらどうなるか想像出来るかい?まあ、ミンガスもそのうち落ち着くと思うよ。彼が良い曲を書けるのは間違いないからね。

  • 1955.11.30

ミンガス、怒りの反論書簡

一体バードの門下生である僕らの間はどうなってしまったんだろう?それとも、もしかしたらマイルスは僕がそこに自分を含めることすら厚かましいと思っているのかも知れないが。(略)
マイルス、憶えてないかい、「ミンガス・フィンガーズ」が書かれたのは1945年だったってことを? 僕がまだほんの青二才の22歳の若者で、エリントンの伝統に則って必死で作曲に励んでた頃だったってことを? マイルス、僕の体重が185ポンド(約83kg)だったのはもう10年も前のことだよ。あの頃着てた服はくたびれてしまってもう僕には着られない。今はもう一人前の大人の男になったんだ。体重も215(約98kg)ある。そして僕には僕の考え方がある。僕は君のようには考えられないし、僕は人々に足でリズムを取らせるためとか、背中をゾクゾクさせるためだけに音楽を演ってるわけじゃない。自分が楽しく陽気な気持ちになっている時には、僕はそういう曲を書くし、そういう風にプレイする。憤りを感じればそれを曲にもプレイにもぶつける
(略)
マイルス、僕を覚えているかい? チャールズだよ。そう、ミンガスさ! 君は11年前にラッキー・トンプソンの推薦で僕のカリフォルニアでのレコーディング・セッションで3番トランペットを吹いたよね。だから、ねえ、穏やかに頼むよ。君の踏み台になってきた人間たちに対しては寛容になってくれてもいいじゃないか

まだまだ1990年代まで続くんですけど、今日はここまで。
最後に

『ダウン・ビート』の面白い成り立ち。

アルバート・J・リップシュルツはフルタイムのミュージシャンでもなければプロのジャーナリストでもなかった。バンドのリーダーになる気もなければ権力にも関心がなく、ましてや世界中で起きている出来事を私見を交えて論じたいという思いもなかった。アル・リップシュルツの関心はたったひとつ、保険の外交だった。彼は第一次世界大戦中にシカゴでサックス奏者をしていたのだが、やがて意欲を失い他のチャンスを探した。程なくして音楽業界での彼のコネを活用できるイイ話が見つかる。1921年、彼はシカゴの職業ミュージシャンたちを保険の顧客として開拓し始める。彼が特に熱心だったのは、ミュージシャンのための月払いの年金収入を確約する貯蓄型終身保険の勧誘だった。(略)
1930年代初期、保険の仕事を軌道に乗せるのに躍起になっていたリップシュルツは、自分自身も儲かり、客も儲かるビジネスチャンスの手がかりを見出す。それはAFMの支部の枠を越えたミュージシャンのための新聞発行で、彼は確かな需要があると踏んだのだった。(略)彼は新雑誌を『ダウン・ビート』と名付け、1934年7月、記念すべき第1号が全8ページ、1部10セントで発行された。(略)
目的はあくまで福利厚生であり、音楽論を戦わせる場ではなかったのである。(略)レコード・レヴューも音楽分析も、批評すら掲載されてはいなかった。

さてそこへ同業の大物から「オレのシマを荒らすのはいいがどっちか一つにしろ」と恫喝の電話があり、リップシュルツは速攻『ダウン・ビート』を編集のグレン・バーズに1500ドルで譲渡。

40年代後半、ジャズはその求心力を失いつつあるように見えた。ビッグ・バンド時代は衰退の一途を辿り、スウィングのスターたちも“過去の人”扱いされるようになり、伝統とモダニズムとがジャズの定義を決める特権争いを演じていた。〈ジャズ〉という言葉そのものすら骨董品的な遺物のように考えている人もいた。そこで1949年7月、『ダウン・ビート』は〈ジャズ〉という呼び名に代わる名称を募るコンテストを行なうと発表した。(略)そして11月、審査員たちにより、ジャズの代わりとなるべき言葉が決定された“crewcut(クルーカット)”である。次点には〈jarb〉"bix-e-bop""blip""schmoosic"など

明日に続く。