「転換期の憲法?」その2/樋口陽一

前日のつづき。

転換期の憲法?

転換期の憲法?

憲法ではなく基本法であり、東西統一まではという暫定性が逆に確定性に

永続性と暫定性、という見地から憲法を見るとき、日本の場合と対照的なのは、ドイツ連邦共和国基本法(Grundgesetz)である。文言からするなら、名称からし憲法(Verfassung)という言葉をさけたこの基本法は、その暫定性をはっきりと表明してきた。146条(旧・東ドイッの編入に伴っておこなわれた1990年改正を経る前のもの)は、「この基本法は、ドイツ国民の自由な決定によって定められる憲法が施行される日に、その効力を失う」と定めていたからである。(略)
そうした文言上の暫定性の強調とはうらはらなのが、実際上の状況であった。1990年の146条改正の意義を論じたクリスチァン・シュタルクは、その論稿をこう書き出している。
「西ドイツという部分国家の暫定憲法だった基本法は、永いこと、確定的な憲法と目され、本物であることを実証し、法についての共通の考え方の根拠、統合要因となり、それどころか、他の諸国の多くの新憲法の手本としてすら役立ってきた」。
もとより、(旧・西)ドイツで憲法正文の改正がひんぱんだったこと(94年の改正で通算42回)はよく知られており、日本では、まだ一度も改正されていない。しかし、憲法の基本原理の社会での受容からすれば、逆に、ドイツでの確定性と日本での非確定・暫定性という対照が成り立つ。憲法の基本価値の擁護という点での(旧・西)ドイツのありようの徹底さは、「たたかう民主制」「憲法忠誠」という標語とその問題性とともに、日本でよく知られている。

こっちは国が暫定なんだよおお

ドイツ(旧・西ドイツ)での憲法の暫定性という建前は、東西に分裂した国家そのものの暫定性という現実のうえに成り立っていた。統一のあと、国家そのものの永続性という現実が加わって(略)、憲法の事実上の永続性は、よりはっきりしてきた。ここで注意してよいのは、(旧・西)ドイツ連邦基本法の暫定性を強調する見解は、その名称(略)、制定手続の形式(略)、占領下での制定、といった点にこだわっているのではない、という点である。統一前は統一への志向、統一後は統一の方式の選択という実質にかかわっていたのである。

日本:憲法は暫定、国家は自明

日本では憲法を事実上暫定的なものと見る見方が根強くひきつがれてきたのに、国家そのものについては、暫定的どころか、それをおよそ自明のものとして前提する見地が有力である。さらにすすんで、国家というそれ自体は人為的な構成物であるはずのものを、民族という実態と等置する見方も、しばしば強く自己主張されている。

  • チョイw

「手で電車は止めることができるんだ」

JR東海社員、酒に酔って電車止める
(略)JR京浜東北線の大宮発大船行き電車内で、緊急時に手動でドアを開ける非常ドアコックを回して緊急停止させた疑い。
佐藤容疑者は酒を飲んで帰宅する途中で、車内でほかの乗客と口論になり「手で電車は止めることができるんだ」と大声で言った後、電車を緊急停止させた。調べに対し「なぜ止めたのか分からない」と供述しているという。

「電車は会議室を走ってるんじゃない、現場を走ってるんだ」そんな勢いで。