ミッチー・ブーム

イラク王室が転覆した1958年、正田家は「民主化の行きすぎ」による皇室の将来を心配していた。

ミッチー・ブーム (文春新書)

ミッチー・ブーム (文春新書)

マイナスの条件

富美夫人が「ギリギリまでドライに考え抜いたことです」、「皇室を尊敬はするが、神さまとは決して思わない教育を、戦前から私たちはしてきました」、「そして、皇太子という身分、地位は私の方としてはマイナスの条件としか考えられなかった」と語ったという。ついに越えがたい一線を踏み切った様子があった。

佐伯記者は、「皇室のあり方が、いわば定年のない外交官のようなものであってほしい。美智子にそういう平和な、つつましい生活が許されさえするならば……」という夫妻の祈るような言葉を聞いている。

皇太子結婚を期に、4度目の退位論。

戦争責任の問題から天皇の退位を願う声は、立場によって大きく二つの観点に分けられる。ひとつは天皇が敗戦責任を明らかにしていないことに批判的で、制度そのものの存続を問う廃位論、また、天皇が自らの戦争責任を明らかにしないならば国民と皇室との間の精神的紐帯に亀裂が入ることを恐れた「国体保持」の観点からの退位論である。敗戦直後からの天皇制をめぐる議論には、意外なほど天皇への敬愛を感じられるものが多く、そして、天皇の責任追及は戦争によって破壊された旧来のナショナリズムに代わる新しいナショナリズムの原理を模索するものだった。そのため、昭和天皇に「人間として」の責任意識を期待する論調は高かった。『週刊新潮』のタイトルにある「第四の」とは、戦争責任の問題を問われた昭和天皇が退位する機会が、敗戦直後から過去に三度あったことを意味している。一度目は1945年の終戦から翌年の日本国憲法の公布時にかけてであった。象徴天皇制を規定した憲法が、「統治権総攬者」としての天皇の大権を廃止したことを機に高まった。二度目は1948年、東京裁判におけるA級戦犯への判決時である。この年は天皇退位論のピークであった。しかし、GHQが対日占領政策の円滑な遂行を目的に、天皇制の存続と天皇の不訴追を確定し、アメリカの戦略に支えられて天皇の退位論は立ち消えになった。そして三度目が1951年のサンフランシスコ講和条約調印によって日本の国際社会への復帰がかない、そして翌年に皇太子の立太子礼が行われた時であった。

退位する自由がないんですよおおw

国民感情を刺激しない「退位の問題」を論じた例として、終戦翌年の十二月、象徴天皇制への移行に対応する皇室典範案の審議が行われた第九十一帝国議会貴族院)で政治学者の南原繁(元東京帝国大学総長)が天皇の自発的退位の規定を設けることを主張した「皇室典範案に間する質問演説」を紹介する。当時、退位が実現してこなかった弁護として、立憲君主として遵法意識が強い天皇は、憲法皇室典範に退位規定がないことを遵守したからだというものがあった。南原はもちろん熱烈な愛国者で、天皇への親愛の情も厚かった。そのため、天皇が自ら退位の決断が行えないのは、違憲であるとして、議会で次の質問を行った。(略)[退位を]欲したときにその道が開かれないのは「享受せられる基本的人権の尊重」を欠くのではないか(略)

宮内庁からのクレームで連載中止となった小説「美智子さま」のエロ描写

結婚後、伊勢神官を皇太子とともに奉告に訪れた美智子妃が、潔斎という禊のために二人の巫女に身体を清められるという場面であったという。鈴木は「……はげしい羞恥と寒さのために、美智子さまの唇は紫色になった……」という衝撃的な描写が問題となったと指摘した。(略)
巫女たちは表情を押し殺した顔で、美智子さまのお召物を脱がせた。美智子さまは、自分では一指も触れることが出来ないのであった。羞恥のため、美智子さまは赤くなり、うなだれ、不覚にも拒もうとされた。
この後、先の鈴木の語ったように、巫女たちによる潔斎に立ちすくむ美智子妃の姿が描かれた。(略)「潔斎」に関する描写以外にも、「初夜」のシーンが問題を引き起こしていたことを報じている。

1969年に発表された庄司薫芥川賞小説『赤頭巾ちゃん気をつけて』には、『女性自身』が派手なファッションをした若い女性のアイテムであることを示すくだりがある。(略)
「はい。」とぼくは答え、それから突然彼女が胸に抱えているのが週刊誌の『女性自身』であることに気づいて、なんとなくびっくりした。それにそう思って改めて眺めると、彼女はアイシャドウやなんかでものすごく派手なお化粧をしているのだ。(略)
[今と違って昔の『女性自身』はファッション雑誌的役割を果たしていた]
その『女性自身』が自らのいわば「イチオシ」のファッション・モデルとして採用したのが、正田美智子、つまり、皇太子妃であった。(略)
『女性自身』が菊印の「皇室自身」と呼ばれるようになるきっかけとなったのが、「お妃教育」のために宮内庁に通う美智子さんの外出着をすべて撮ったことであった。

元祖読者モデルは素人モデルミッチー

1960年代『女性自身』は大量のスナッブ写真を撮り貯めては「皇室特集」を組み、『別冊女性自身』として発売した。現在、女子大生を中心に圧倒的人気を誇るファッション雑誌『JJ』の創刊は、1975年である。その前身は現在ではあまり知られていないが、この『別冊女性自身』であった。『JJ』創刊号の表紙にもそのように記載されている。『JJ』は、『女性自身』の姉妹誌だった。その誌名は『女性自身』の頭文字J=女性、J=自身からとられており、1960年代には、『女性自身』が「週刊JJ」と呼ばれることもあった。

逃げるのかと記者から罵声を浴びせられ泣いた事もあったけど

「第三者からごらんになると、私のいまおかれている立場はとても面白いことにちがいないと思うんです。ですが……私にとってみると、家族のことやそのほかいろんなことがあって、なんといっていいかわからないほど、大きい、こわいことなんです」
ベニをつけないくちびるが、すこし乾いていた。「こんなことをいっていいかどうかと思いますが、ひとつだけわかっておいていただきたいの」と美智子さんはつづけた。それまでのやわらかい微笑は消え、黒目の豊かなまなざしはひたむきに動かなかった。
「……もし、私がどんな方とごいっしょになることになっても、それはその方自身が、ほんとうに私の結婚の理想にあてはまる方だからということです。私はこれまで私なりに結婚の理想や、理想の男性像というものをもってきました。その理想を、ほかの条件に目がくれて曲げたのでは決してないってことを……」