新しいデカルト

新しいデカルト

新しいデカルト

さわやかな「わたし」

あえてこういおう。社会にはひとかけらの精神もないのである。だから、けっして考えさせられるな。「わたし」に帰れ。考えさせられるのでなく、考えよ。デカルトの「わたし」、あのさわやかな「わたし」、これだけが、たんに人為的なまとまりにすぎない諸々の体系に開いて閉じることのない、異質な風穴なのだ。
異なる存在をも異なる体系をもまったく恐るべき冷たさで飲み込んで均して、自分の陣地の拡張をしつづけるこの世界にあって、ただ一つ、そこからまぬがれつづけて、びくともしないもの、それが、デカルトの「わたし」である。

デカルトは、ときに「わたし」と呼ばずに、「良識」とも呼んだが、こういう「わたし」とは、この世界のことであり、存在のことであろう。(略)
精神が世界をとらえるのであって、物のなかに閉じこめられた精神というものはない。精神は、わたしの肉体のなかにさえない。つねに全体だから。(略)
どんなに、にぶかろうと、おさなかろうと、精神をもったわたしたち人間は、考えている。全体をとらえている。にぶい、するどい、のちがい、明瞭であるかないかのちがいはあろうとも、精神はつねに全体である。少しも特別の働きではない。
もう一度いうが、精神の働きに天才も専門家もない。(略)
持って生まれたあたりまえの精神の働きをつかみなおしさえすれば、わたしたちは、数学をも、一手に引き受けることができる。そして、倫理学はおろか、しあわせをも、わたしたちは一手に引き受けることが可能だ。「わたし」をつかみなおすことで。
そうすることで、わたしたちは変えられない害悪にも耐え、さらにはいかなる状況にあっても、そこから満足を取り出すことさえ不可能でない。けっきょく、生きるとはそういうことであろう。デカルトの方法は、これ以外のためのものではない。

よりみちのススメ

ふつうなら、一心に考えると称して、精神をかちんこちんに固まらせてしまうかぐるぐるまわりをやりだす。たいてい、ものを考えるというより、事物にのまれて精神は事物の無秩序へと落とされる。
方法序説』の全体は、それを避けた精神の働きのモデルである。

旅立てジャック

他人から得ても、なにも理解したことにはならない。自分で発見しなおしたり、自分でつくりなおしたりするのに要した時間だけが、理解を生み育てる。(略)

ひとが二十年もかかって考えたところを、ニ言三言聞いただけで、さっそくわかったと思いこむ人びとがいる。しかもそういう人びとは、頭がよければよいほど、誤りやすく、真理から遠ざかることが多いと思われる。そういう人びとが、わたしの原理だとかれらが信じこんだものの上に、とんでもない哲学を建てる機会をとらえ、その責任はわたしが負わされる、そんなことになるのをふせぎたいからである。

(略)
方法序説』に描かれた二十年の修行は、じつをいえば、思想の徒刑囚となってしまうことに対する一貫した用心だったとも思われる。デカルトはただ、自分のあたりまえの力を働かせている。そのためには、たえず決断する大旅行家となったし、戦争に出たし、ドイツ皇帝の戴冠式も見たし、村に住み、大都会にも住んだ。つねになにかを知覚する機会をのがさなかった。すべては、自分のあたりまえの力を働かすという出発点を、つねにふたたび発見しなおすことにかかわっていた。迂路のないまじめな思考は、大切なものから遠ざかるばかりだろう。なぜなら、修行を欠いているから。

あたりまえの能力

ひとよりよぶんにもっているものなど、何物でもないのだ。大切なのは、ひとと大差のないものを、わたしたちの持って生まれたあたりまえの能力を、「よく用いること」である。
すると、こういうことがいえる。デカルトが「良識」と呼ぶ、わたしたちの持って生まれたあたりまえの能力、それこそ、わたしたちが「よく用い」うるものすなわち訓練しうるものなのだ、と。
わたしたちの、いくらでも努力して伸ばしていけるもの、それは「公平に与えられているもの」にほかならず、そうでないもの、たとえば、天才のひらめきや、神がかりや、好運な思いつきなどは、あてにすべきでない。
だからまた、不運な血筋、自分で自分をそう決めつけてあきらめてさえいる生まれつきの性格や気性、そして障害、そんなものも、どうということはない。げんに生をうけているからには、わたしたちは、ぜったい訓練されうるものをもっている。自分は訓練できる。そうして、よりよい人間に、わたしたちはなれるのである。

イライラは天気や体調のせいかもね

デカルトは、こうして、精神を自分に確保しておいて、情念を、その本来の持ち場へ送りかえした。情念は、物の秩序へと投げこまれたのである。これはどういうことかというと、ロボットにも、情念をもたせうるということである。
もしかしたら、まわりの人をびくびくさせずにいない尊大な気分屋さんは、思いどおりの言動をしているどころか、外界の状況と身体の状態との諸力に引きずりまわされているのかもしれない。意志を喪失し、ロボットの状態へ落ちてぬけられないのかもしれない。しかし、情念の正体はそれだ、とデカルトは指摘しているのだ。それが情念の原因であればこそ、わたしたちは、思うようにならない精神の闇などを想定してそれにふりまわされることなく、身体に命じ、手足を動かし、その訓練を積むことによって、いらいらやこわばりや痙攣を脱し、精神の望む動きを実現できる。デカルトはそう論じている。

情念なしに、肉体なしに、この世の実在なしに、わたしたちの精神が働くなどということは、けっしてありえない。デカルトは、情念のなにものも失わなかった。物は実在する。かれは、経験を好み、旅に明け暮れ、自然も、異国の儀式も、商人の街も、なんでも見て、そこで暮らしてみた。自分の意志をなによりも尊重していたからだが、つまりは、物が実在していなかったら、外界が存在していなかったら、意志など無意味だろうからだ。この世があるということ、それが、精神に衝動を、つねに与えつづけている。
努力の第一歩はそこだ。外界の猛威に押されて、縮こまって内界を空想したり、夢に眠りこけたり、していてはいけない。外界に働きかけてみよう。からだを使ってみよう。そうやって、デカルトはつねに、意志を発見しなおした。

難しい哲学をわかりやすく語っていて素晴らしいではありませんかという感動とともに、わかりやすい言葉はちょっと「みつお」な気配も含むわけでそこらへん微妙だわと言葉を濁しつつ明日に続く。