新しいデカルト・その2

前日のつづき。

新しいデカルト

新しいデカルト

懐疑論者ではない

「ただ疑うために疑い、どこまでも先のばしにすることを誇示する人びと」は、デカルト以前も以後も、いくらだっていたが、自分はけっしてそういう懐疑論者の仲間ではない、とすでに『方法序説』でも明言している。
方法序説』を出して以来、デカルトにつきまとったものは、かれがそこに開陳してみせた懐疑を、なにか特別な刺激的な新種の思考方法のようなものとして受け取りたがる無理解だった。
そもそもデカルトがとった方法は、「疑う余地のないほど、明晰にかつ判明に、わたしのこころに現われたものしか、判断のうちに取り入れないこと」、それだけだといっていい。

例のフレーズにより

「わたし」が第一原理になったとたん

抽象的な「わたし」が、あやしい声を上げはじめる。この世は「わたし」が見る夢にすぎないのかもしれない。(略)とりわけ頭のするどい人たち、学者たちが、こういう考えに誘われやすい。(略)
おそらく、疑うために疑い、この世の存在を否定し、自己を否定し、深刻ぶって懐疑をてらう人、そんな人たちが、デカルトの懐疑に飛びついてくることが、デカルト自身にはわかっていた。「どういうふうに論ずるのがよいか。」論じ方をまちがったら、そんな人たちだけでなく、「愚鈍な人びとまでが、その道に踏みこまねばならぬと信じこみかねない。」

激動混乱による迷いは懐疑ではなく気絶。

[森で迷いどちらに行こうか]思考の堂々めぐりを切りもなくつづけて、身動きがとれなくなるようでは、大事な瞬間に、気絶しているのと変わらない。
いや、じっさい気絶しているのだ。自然の混乱を思考でたどるうちに、その混乱のままに思考が混乱し、森にのまれたのだから。そんな迷いはむろん懐疑ではない。わたしを混乱から救うのが、そもそも懐疑の働きなのだから。
いま、炉ばたでくつろぐデカルトは、とうぜん、外界のあやうさにめまいなど起こしはしない。外界のどこにもあやうさはない。
その点、刺激的な思考と称して、めまいを好む人たちは、自分では、既成の存在が疑われてゆらぐさまを目撃しているつもりでいるが、じつは、自分が、頑強な自然に引きずられたままとなり、眠りこけただけのことであろう。なに一つ、新しいものを見たわけではないだろう。
気絶した者は、自然のなすがままである。そのどこもかしこも自然であって、どこにもまちがいなどない。自然は真実だ。そこにまきこまれ眠りこける者も真実だ。それだけのことである。ところで懐疑とは、それをも拒否できる人間の自由の現われなのであった。
炉ばたで懐疑を開始するデカルトは、最もめまいから遠い状況を確保し、はじめた。最も自分がわれに返るときを、選びぬいた。

限られた完全性

「人間は限られたものであるゆえに、やはり限られた完全性が、人間にはふさわしい」ということばも、同様だ。けれども、「限られた完全性」とはなんであろうか。精神と肉体の一致のことではないのか。
「神」は肉体を超越した存在であるから、この「限られた完全性」は、まさにわたしたち人間のもので、「神」のものでないといえる。そして、精神と肉体の一致こそが、わたしたちの自由であることは、くりかえすまでもないだろう。「神」は自由でも不自由でもない。自由はわたしたち人間のものだ。

信じることは疑いから生まれ、疑いは信じることから生まれる

注意してほしいのだけれど、信じこまされることと、信じることとは、まったく別だろう。信じこませるためには、相手に思考を放棄させればいい。しかし信じるということはちがう。
信じるということには、疑いとの、絶妙なからみあいがある。信じることは疑いから生まれ、また疑いは信じることから生まれる。ふつう、思考はそういう運動をする。そういう動きをしないような疑いは、たんに懐疑のポーズを見せびらかす懐疑家の得意技にすぎない。懐疑家は、考える手間を省いているだけである。

著者は予備校で物理を教えていて、この本は五年がかり。うーん、素敵じゃないですか。一度授業を受けてみたいものです。そんなわけで貶したくないし、まあ貶すとこもないのだけど、100ページあたりまでだけだったらケチのつけどこはあるとしても絶対お薦めだったのだけど、どうも後半が・・・。うむう。けなすつもりはないが、どうなのか。
ただ、よくある初心者向けと称した、わかりやすげにすればいいんだろってな志の低い本とは全然違うと思う。けれど。