スキャンダルと公共圏

スキャンダルと公共圏 (YAMAKAWA LECTURES)

スキャンダルと公共圏 (YAMAKAWA LECTURES)

理想主義的な不寛容さのわけ

ラインハルト・コゼレクは公と私の政治的区別は、17世紀の宗教戦争の余波のなかで生じたと論じます。ヨーロッパを引き裂いたこの極めて分裂的な抗争は、新しい国家論を生み出しました。この国家論は、国家から道徳性を取り除き、臣民に外面の服従を要求する国家理性のイデオロギーです。その一方、この新しい理念は臣民に私的空間〔の保持〕を許容しており、その空間のなかで臣民は、自らの信条を奉じ、良心を追求することができたのです。文芸共和国は、まさにこの私的領域から生まれたのです。文芸共和国は、部分性や偏りを超越するために、当初、国家や政治の問題にはふれないようにしていました。しかし最終的に、とくに啓蒙期には、それが批判精神において政治組織や政治家にまさると主張するようになりました。
自らの清廉さを強調するこの主張が、コゼレクの目にはこの種の批判のもっとも危険な面と映りました。なぜなら、この主張が、政治的妥協を退けることを正当化し、当事者の判断を狂わせて、権力願望へと自らをいたらしめたからです。そして、自らの道徳観に対する抑制はまったく認めない、理想主義的な不寛容さを生み出したからです。

公衆はばらばらの断片にくだけ、文化自体が、活発な議論というよりも余暇の娯楽に変わった

19世紀になるにおよんで、批判的に討論する実体としての公衆の結束を裏打ちしていた組織は力をそがれました。公衆は、「自らの理性を公的にではなく用いる少数の専門家と、公然とそして無批判に受け入れる消費者大衆」に分けられたのです。(略)そして政治は、エリートのあいだのかけひきごと、公衆を巧みに操る技法へと転化しました。(略)
したがってコゼレクにとっての暗愚で、説教的で、全体主義的な政治が誕生したときとは、ハーバマスにとっての、理性的言説の市民的政治が短いあいだながらもつくられた時期だったのです。実際ハーバマスは、効果的で批判的な公共圈の形成は、特有の歴史的時期の所産であると論じたいのです。それはおおよそ18世紀の啓蒙期です。

自由と私生活

ハーバマスが強調するように、公共圈において論じられた主要な論題の一つは自由と主観性だったからです。その意味するところは一人の人間として自己を認識することでした。この種の議論はしばしば文学的なかたちをとり、たいていは印刷物を介して表現されました。この点をハーバマスは強調します。この純然たる人間性の感覚は公的につくりあげられたもので、親密圈の表象と公的に合成されたその価値によって支えられていたのです。つまり公共圈は、私生活についての前代未聞の討論と、無類の私生活の暴露を生み出したのです。

文芸共和国ML

もちろん、私的にみせかけて書かれた手紙には、〔本当の〕私信よりも大きな目的がありました。文通が知識を伸ばすもっとも重要な方法の一つであったことはいうまでもありません。文通は文芸共和国における大変重要な装置であって、これによってロンドン王立協会は知識と影響力を拡大したのです。急進主義者は、1790年代に政治変革のための全国運動を組織しようとしたときにも、通信協会を立ち上げました。これら手紙の執筆者の回路は、書簡が印刷されずに終わった場合であってさえ、公的なものでした。書簡は、二つの意味で公と考えられました。まず、手紙は共通の目的に専心する者の集団が読むために書かれていたからです。そしてその目的は公的なものであって、文化あるいは政治にかかわっていたからです。
文芸共和国は文通によって結合していました。

私信ですけど、あまりに素晴らしい意見なのでw

公衆の前に私信を寄せた者は、非常に私的にみえるこれらの手紙に特別な意味を与えます。(略)
手紙は二人の文通者のあいだで「友人間の私的範囲において」送られたとき、「私的な書簡、通信のなかからちらっとあらわれてきた」ときに賞賛されました。そして本来公の目にさらすために書かれたのではないと証明することが重要だったからこそ、手紙にはそれらがどうやって印刷されるようになったかの説明がしばしば与えられるのです。「紳士は、私的友人からこの手紙を受け取られた。しかしその議論にたいそう感銘を受けられたので、全文を出版することを決意された」。

自分でさらす

18世紀ロンドン出版界の商業化した環境において、書籍商は上流階級の私信を宣伝しました。そして決して公にさらされることが目的でなかった私的な書簡を、公衆読者の眼前に並べることについて、良心の呵責をまったく感じませんでした。私に対する侵入。そうであったとすればの話ですが、侵入は貴族のもっとも親密な書簡でさえ、公的重要問題であるという理由によって正当化されたのです。この状況は興味深い反応を生みました。(略)
それは私的文通が刊行物の一分野になる過程でした。プライヴァシーを公にさらすなら、信用ならない他人に任せるよりも、自分でするほうがましだということに気づく過程です。

18世紀商業文化の特色

三つ目の特色は、この文化が社会的表現を強調するとみなされた点です。文化的な場は自己表現の場であり、そこでは、聴衆や観衆が自らの富、地位、社会的そして性的魅力をひけらかしていました。観劇する、競売に参加する、画家のアトリエを訪問する、コンサートを聴くなど、文化の場に人が存在したことのうわべの理由は、しばしば、より強力な社会的義務なるものに根ざした理由にもとると考えられました。観衆は、理由もなく娯楽に興じたのではなかったということです。文化を社会的行動の一部とみなす解釈です。そして、一人ひとりの観点からは、文化に近づくこと、文化の闘技場に参加して自らをみせつけることは、社会的地位を保つもしくは獲得する、そして社会的差異を確立するうえでの大変重要な手段でした。

諸般の事情でいい加減にやってしまったので、暇な時にもう一度ちゃんと読もうかなんてその気もないのに言ったりしてトンズラ。