啓蒙の都市周遊・その2

前日のつづき。
「都市は大修道院とどこが違うのか」エラスムス書簡(1518.08.14)

啓蒙の都市周遊

啓蒙の都市周遊

「聖なる都市」チューリヒ

ルターから離れた、こうした「改革派教会」の違う点はどこにあるのだろうか? この派は、カルヴァンを先取りして、聖なる都市(Civetas Christiana=キリストの都市)を創造するという理想を目標としたのである。外面的にはこれらの都市は、礼拝の厳格さ、偶像敵視の厳しさで識別される。したがって教会にはもはや装飾や肖像はー切なく、音楽は教会から排除され、パイプオルガンは引きずり出された。個々の市民への道徳的締めつけも「聖なる都市」というこの構想に含まれており、その結果市民の生活様式修道院に近くなった。道徳を公的に監視するための公的機関が作られ、教会と市民が共同で運営した。聖書によって正当性を授与され、力を得た市当局はいまや教区、聖職者、修道院、学校、貧民扶助、結婚生活の監視を請け負った。(略)
17世紀の間にチューリヒはますますイデオロギー的に外界と没交渉になった。このことはまず、他の都市からは一人も学校の教師も教授も採用されなくなった点に示される。(略)
しかし18世紀初頭になると、もっぱら神学的内容を志向することは、発展しつつある商業都市のさまざまな要求としだいに衝突するようになった。チューリヒはちょうど、ヨーロッパの中で最も資本力のある、最も早くに工業化された国々のひとつに発展しだすところであった。
したがってますます多くの商人が子供たちを外国で学ばせるようになった。(略)とはいえ、チューリヒの精神生活は18世紀もずっと遅くまで聖職者階級によって形成されていた。市民の五人に一人は聖職者であった。

想像力は有害である

どんな虚構も読者に対する欺瞞である。ゴットハルト・ハイデガーによれば読者はこう問わねばならない。「おや、まあ!私が読んでいるのはなんなのだろう? 私はなにに驚き、笑い、悲しみ、ため息をついているのか?他人の夢と空想にじゃないか! この世で一度も起こらなかったこと、私を馬鹿にすべく考え出されたことにじゃないか!」(略)
「自然を的確にとらえなかった作家は嘘つきと見なされるべきである。自然と異なるコピーを作る画家も彫刻家もいかさま師である」。(略)依然として、空想は人間を誤謬へと導く危険な欺きの道具であると見なしているカルヴァン派の真理厳格主義にとっては、正確な自然模倣という厳格な鎖につながれた文学だけが許されたのである。

崇高vs美

偉大な心は人を魅惑し、狼狽と驚愕の入り混じった非常な感嘆を惹き起こす。それに対して機知は類似性の並置によって人を楽しませ、理性は人を納得させる」。(略)崇高性は、入り混じった感情、つまり驚愕と魅了(恍惚)という相反する心の動きで「偉大な心」を動かす。これとは対照的に、美しいものは(略)「機知」と関係づけられる。(略)
美しいものの働きは、「楽しませること」であり、原像と肖像の知的な比較から生まれる純粋な楽しみである。(略)
宗数的に色づけられた内容を述べる崇高なものに対して、美しいものは道徳的指導の手段として、あるいは暇つぶしの遊びとして軽視されている。同時に読者層の区別も暗示されている。つまり、崇高なものは、偉大な心情の持主たちからなる小さなサークルを必要とする。つまりエリート的であるが、一方美しいものはむしろ大きなサークルを想定しており、どちらかと言えば民主的である。

カントの天体観測

この短い報告は、この彗星の観測が第一級の社会的出来事であったことを非常にはっきりと示している。クヌッツェンをケーニヒスベルクの上層階級の人々が専門家として招待しているほどである。クヌッツェンは数個の望遠鏡を持っていて、それを他人にも貸していたらしい。(略)
カントは、1740年に入学してから、クヌッツェンの哲学や数学の講義はひとつも聞き逃がさなかった以上、あの冬クヌッツェンが時々自分の天文学の実習や観察に参加させた受講者の輸の中に彼もいた確率は高い。このような記録を総合してみると、カントは---これまでのカント研究が推測してきたように---本当に一度も自分の頭上の星空を望遠鏡の助けを借りて見たことがなかった、というのも新たに疑問の対象になってくる。

「私は世界を作ってみせよう!」カントのデビュー作

ケーニヒスベルク上空への大彗星出現の10年後に、カントは最初の主要著作を完結させた。(略)この最初の主要著作で登場する思想家カントは、世界の発見者という大胆な身振りをしている。宇宙の構造と成立についての彼の構想は、同時代人の理論的空想を爆砕するものであった。これまで人々は「無限で測り知れないこと」という表現を安易に使ってきたが、それがハッと息を呑ませるような具体性を持ったのである。(略)
30歳の男のこの最初の偉大な著作を貫いているのは、根拠のあることを自分は書いているという自信である。(略)著作の背後に見て取れる自意識は、権威も伝統も認めず、猛烈な自己集中によって神をも恐れぬ発言へと敢然と突き進むようなそれである。「私に質料を与えよ。それを使って私は世界を作ってみせよう!」。「私は全宇宙の物質が一般的に均等分散していると仮定し、その均等分散から完全なカオスを作り出してみせる」。ここでカントは、手の中で新しい世界を作るプロメテウスとして登場する。敬虔主義的なケーニヒスベルクに、これによって前代未聞の音が響き渡ったのである。

改革の失敗

オーストリア帝国を近代的な行政管理機構を備えた中央集権国家に改造しようという試みは、まずは周辺部分で---ということはハンガリーオーストリア支配下のニーダーランデで激しい抵抗を惹き起こした。行政を画一化したために、それぞれの長い伝統を持った個々の地域は、単なる行政単位へと貶められてしまった。ハンガリーで伝来の身分制を解消し、行政語としてドイツ語を導入したのは、より効率的な行政をめざしてのことであった。近代化のプロセスは、立法や法曹制度にも及んだが、そこでも目的は均一化であった。(略)抵抗が強まると、この啓蒙絶対主義の側からの答えは警察システム、検閲システムの整備であった。1785年にはフリーメーソンが厳しい統制下に置かれ、警察の監視に曝されるようになった。理由として挙げられたのは、「身分の違う人間同士の会合はどんなものであれ、成り行きにまかせておくわけにはいかないのであり、信頼できる人間の指導と監督の下に置かねばならない」というものであった。身分の壁を越えるのは、反抗的行動とされるようになってしまった。カフェー、サロン、公園といった世論形成の議論がなされる場(公共圈の場)がちょうどできはじめていたところだったのに、そうしたところにはスパイがうようよする事態になった。平等は、旧来の自由権(旧身分制社会の諸権利)の剥奪というかたちでのみ実現した。都市の議会、地方ごとの議会などは自治権を剥奪され、絶対的支配者の前ですべての臣民が相互に平等な存在に貶められてしまった。