古代から中世へ

あまり面白くなさそうなタイトルですが、免税の言い訳で貧者保護を始めた教会が「貧者」の意味を拡大・変容させて、エリートも神の前では貧者としてへりくだるシステムを完成させ君臨していったという話。

富裕者による「自分の都市への愛」

自分たちの都市への愛から、経済的に貧者を規定して支援することで地域社会への彼らの愛を示す

[古典期には]富裕者は「自分の都市を愛する者」であるがゆえに称賛されるのであり、決して「貧者を愛する者」であるがゆえに称賛されるのではありませんでした。富裕者は、都市的建造物の栄光と市民生活の快適さを増大させるべく、都市に対して気前よく贈与することで、「自分の都市への愛」を示しました。(略)
そのような社会モデルにあっては「貧者」、その多くが困窮して都市に流入してきた移民であり、都市共同体の周縁部に生きる非市民であるところの「貧者」が配慮される余地は、ほとんどありませんでした。(略)
[皇帝のパンで飢えをしのいだのはたしかに貧者だったが]
彼らは「貧者」であるがゆえに、このパンをもらえたのではありません。彼らはテッセラ、すなわち、現代のパスポートのように彼らが「市民」であることを証明する引換券を提示できたからこそ、パンをもらえたのです。ローマ市やほかの都市で、多くの富裕市民も同じテッセラを受け取り、ちっとも貧しくないのに、彼らより貧しい市民たちが受け取るのとまったく同量の穀物を得ていました。
「貧者への愛」が主要な公的美徳となりえたのは、この強固な「市民」共同体意識が弱まっていき、帝政後期にいたってついに、「富者」と「貧者」という純粋に経済的な社会区分を強調する、そういう社会モデルに取って替わられてからのことでした。その社会モデルは富裕層に対し、都市や同胞市民に対して気前よく贈与することによってではなく、「貧者を愛する者」となることによって、つまり、もはや市民身分によってではなく、厳密に経済的困窮度によって規定される一部住民に対して支援を与えることで、地域社会への彼らの愛を示すよう促すものでした。

教会は税免除の言い訳で貧者に施し

後期ローマ帝国は、それまでにはみられなかった決意をもって、全帝国規模で課せられる、徴税と強制的な公共奉仕義務のシステムをつくりだしたのです。その結果、社会は税の差別的負担が万事を決定するようなかたちで構造化されました。(略)
キリスト教聖職者は彼らに与えられる諸特権に値するほどのことを何かしているのかという点を、公共の利益のために正確に説明する必要を増大させました。(略)聖職者の答えはもちろん、教会は貧者の世話をするためにその富を用いている、というものでした。(略)
したがって私たちは、「貧者への愛」を説く四世紀キリスト教の説教の切迫感や輝きに目を眩まされてはなりません。平信徒たちの期待が教会に無言の圧力をかけていたことを、私たちは看過しがちです。

貧者を極貧に染め上げる手口

キリスト教のレトリックには、「まず最下層について極めて劇的で他と区別させるようなイメージを創出し、つぎにそのイメージを下層階級全体に押しつけることによって、貧民〔のイメージ〕を貧窮化させるという概念的効果があった」のです。(略)
その結果として私たちは、多数者の貧窮と少数者による抑圧的な富の蓄積の対照ばかりがあまりにめだつ世界像を呈示されて、後期ローマ社会を構成していた、もっと微妙で中間的な諸階層がみえなくなってしまっています。

教会に丸投げ

ナント、皆さん、当時の訴訟簡略短縮化の手段は教会に丸投げだったのだ。ローマ法より「司教がシロといったらシロ」神の威厳で正当化。

コンスタンティヌス帝は司教裁判を支持することで、キリスト教司教に対する自らの敬意を示すと同時に、キリスト教会を帝国官僚機構に比べて社会の下層階級により多く接触する中間的機構として、訴訟を抑制せんとする自らの企てに引き入れたのです。彼は司教裁判における迅速かつ安上がりな裁定か、数々の長引く訴訟によって州総督の法廷が身動きとれなくなるような事態を防いでくれるであろうと期待したのでした。
司教裁判は貧困層に対してのみ開かれていた法廷では、決してありません。司教裁判がもっとも上首尾に役立ったのは、帝国の法廷における訴訟の長期化で破産するわけにはいかない、比較的裕福な階層に対してであったように思われます。非キリスト教徒は司教裁判を受ける資格を得ようと、進んで改宗しました。

「貧者」とは請願者

古代西アジア地域における「貧者」とは偉大なる存在の正義を受けるためにへりくだる「請願者」であった

古代西アジア地域では、「貧者」は経済的な一範疇ではなく、司法的な一範疇だったのです。「貧者」とは原告や請願者であり、乞食ではありませんでした。(略)
古代西アジア地域においては、「貧者」に「正義」を与えることが、地上の王の力であれ神の力であれ、王者にふさわしい力を知らしめる一つのしるしでした。(略)
そのような正義を得るためには、請願者は「貧者」の立場、すなわち、王以外には保護者がいない人間という立場をとらねばなりませんでした。これは、彼なり彼女なりが経済的に極貧であったことを意味するものではありません。むしろ「貧者」とは、どのような身分に属していようと、偉大なる存在からの応答を、へりくだりつつもひたすら待っている人間のことでした。

帝政後期ローマ人も『旧約聖書』を通して「貧者」を古代西アジア的に捉えた

この結果、「貧者」という言葉は、より「市民型」に近い社会モデルではこの言葉についてまわる「恥」のニュアンスを、ある程度失いました。つねに上からの正義と保護を求める必要に迫られて、かつては自らを「市民」と考えていた多くの人びとが、「貧者」という言葉も同じくらい有用であることに気づきました。この言葉は彼らに、世話を受ける資格を与えてくれるのです。それはもはや、人が乞食であることを意味しません。この言葉が意味するのはたんに、人が司教の広汎な「貧者へのケア」に与るべく、自らを教会の保護のもとにおいたということでした。

「貧者」の代弁者を自称

いまや司教、聖職者、聖人たちが、各自の地域社会の代弁者として、世俗のエリート層と上首尾のうちに競い合っていました。彼らはしばしば、自らが代弁する人びとのことを「貧者」という総称で語り、「詩篇」の祈りと同じように、上方の偉大なる存在からの慈悲を求めているという、宗教的言説を用いました。(略)
四〜五世紀の過程でこの[パイデイアの「伝授を受けた仲間」による]権力の「共生」モデルが、キリスト教世界で育まれてきた、もっとあからさまに「垂直的」な社会像の前に屈したことは、もうほとんど強調する必要はないでしょう。(略)
私たちはいまや、地方社会の指導者ですら、コンスタンティノープルという帝国の中心に着いたとたん、その教養や地域社会で占める地位にもかかわらず、自分が「乞食のように」感じるはずの、そういう社会をみているのです。

目覚めれば口中に天国の甘美さ

五、六世紀にはまだ、それ以前と同じく、死後の世界は地上に近いところにあると思われていました。「この世」と「あの世」のあいだの障壁は、しばしば取り除かれました。天使とダイモーンは、人間と同じ物理的空間を共有していました。(略)
聖人の修道地や聖人の墓では、「この世」と「あの世」を分け隔てる壁に、いわば貴い裂け目を見出すことができました。この裂け目から光が芳しい香りとともに射し込み、この香りによってありとあらゆる癒しが実現しました。聖人たちがいま暮らしている天国から吹いてくる癒しの微風にふれて、木々は奇蹟のように花を咲かせ、食糧は何倍にも増え、障害や麻痺で動かないはずの肉体が蘇るのです。眠っているあいだにじかに天国に入り込み、翌朝まだ口中に天国の甘美さの感覚を残して目覚めることは、例えばペルペトゥアのような殉教者の特権でした。