啓蒙の都市周遊

啓蒙の都市周遊

啓蒙の都市周遊

無数の国家に分断されていた近代ドイツでは

書籍出版・販売業は、廃れないためには、資本主義以前の経済形態、つまり交換貿易、あるいはバーター貿易という形態を取らねばならなかった。実際に書籍商は、フランクフルトの書籍市で---後には主にライプツィヒの書籍市で---自分のところで印刷した書籍を分量や全紙数に応じて、他の書籍商のそれと交換したのである。印刷された紙は---製本しないまま樽に詰められ---初めのうちは内容にかかわらず、同じく印刷された紙と、まるで農鉱業の産物のように交換された。したがって書籍商たる者は、「およそ書籍市でなんらかの意味のあることをするためには、出版業と販売業を兼務し、生産と販売を直接に結びつけて」いなければならなかった。「その際、書籍流通のためには事業資本は必要でなかった。物々交換時代の書籍出版販売業はいみじくも次のように言い表されている。「本に関わる仕事はいわば、ひとつの大きな出版協同組合であり、同時にその販売支店網であった……。書籍市は協同組合員の集合であり、そこで各自が自分の製品を前に並べ、引き渡し、全製品の中から自分として販売したいものを選び出し、持っていった」」。

出版業者は著者に住まいを提供して援助し作品を確保した。
情報センターとしての役割。

例えばカンターの書店には郵便馬車の着く日には新しい本が並べられ、お金のない学生たち---その中にはヨハン・ゴットフリート・ヘルダーもいた---も中身を見ることができた。カンターは自分の書店を、本に取りつかれたすべての人のために鷹揚にも「無料の公開の食卓」とし、ここで「学生たちは半日、いや、丸一日」まだ仮綴じの書物をむさぼり読むことができたのである。それは「〔同居している〕ハーマンにとってこれは、なんの制限もなく読みふけることができる、ということであり、自分の蔵書と並ぶ、第二の手文庫として自分の財産と同じことであった。この時期、カンターがハーマンにとって教養の源泉としても産婆役としてもどれほど重要であったかは、言い表しようがない

ネットワークとして

書籍商兼出版業者は、身分制と職能区分で固められた周囲の社会の中で、新たな相互交流のための自由な空間を生み出していた。それは、物を書く新しい専門家集団を作るための未来の島であった。彼らが保有する大量の在庫品は、公共図書館がないのを補ってくれた。また、彼らは国内外のあちこちに離ればなれに暮らしている作家たちのネットワーク化に役立っていた。そしてこうしたネットワークは、相互に訪問したり招いたりすることでいっそう深められたのである。

30年戦争後の大学の危機。哲学より礼儀作法。

1648年以後、貴族が新しい役割を得て、いま述べたように高級官僚の道に踏み出した結果として、貴族にも大学教育が必要になり、それとともに貴族は、人文的な教養の伝統に対して持っていた旧来の抵抗感を解消せざるをえなくなった。しかし(略)せいぜいのところ法学部が貴族に役立つ手だてを提供していただけだった。(略)
30年戦争以後は貴族の学校もしくは騎士のアカデミーが次々と設立されるようになり、それらは貴族専用の職業訓練に貢献し、その教育過程はギムナジウムや大学といったスコラ的な教育施設とははっきりと一線を画していた。貴族にとって学問の教育価値は、軍事および行政によって領邦国家に仕えるのに役立つかどうかによっていた。(略)
さらに騎士のアカデミーではどこでも生徒の「品行」に最大の価値が置かれていた。つまり、会話、上品な物腰、それにモードの授業が行なわれた。そうした学校は領邦君主の宮廷の近くにあったために、生徒たちは礼儀作法の知識を実践で仕上げるチャンスが得られ、彼らが「典雅な人物」という理想に近づくのに役立った。
大学にとってこれらの施設は大変な競争相手となった。また国の行政機関への採用が再封建化されはじめ、市民階級の知識層が宮廷に入りにくくなったことによって、競争は大学にとっていっそう厳しいものとなった。

18世紀の週刊誌。スキャンダルによる道徳

週刊誌という新しいジャンルの登場とともに啓蒙は大学や学校といった領域から出て、学問的訓練を受けていない「一般市民」が啓蒙の受け手となる。(略)
町の読者公衆のために書かれたこうした道徳週刊誌は、実在の人物や出来事について報道することをめざし、それによって読者に一方ではのぞき見的な好奇心を煽ったが、他方では、いつ自分の番が来て個人的に俎上にのせられるかわからないという不安をかきたてもした。こうした不安をもてあそぶことは新しい道徳哲学のためであった。啓蒙における諷刺が正常に機能する前提は、柔軟な解釈によって虚構性と特定の地域的現実の間を行ったり来たりできることである。

身分制社会打破する週刊誌『パトリオート』。愛国心ではありません。私利私欲の対極にあるもの。

『パトリオート』が祖国という語を使っているからといって、それを19世紀に支配的なテーマとなったナショナリズムのあの形態と取り違えてはならない。行動の枠としての祖国という言葉は、18世紀においては少し違うことを意味していた。「船に乗っている者は、自分たちが最も得をするためにその船の維持を求めるべく相互に結ばれているであろう。同じように、いやそれ以上に町の壁に囲まれて結ばれている人々の責任は、祖国が得をするように心を砕かねばならない……」。つまり祖国ということで考えられているのは、そのつどの最も狭い周辺区域のこと、ここの例では、都市の城壁に囲まれたハンブルクという都市共同体のことなのである。ここで私利私欲の正反対として理解されているパトリオティズムはこう考えると、宗教改革の時代に再興された帝国自由都市の基本的価値と、そのままつながっていることになる。(略)市民にはもはや犠牲を要求することはない。『パトリオート』誌で何度も強調されているように、公共の利益があってこそ現在および将来にわたって自分の利益が守られるのである以上、そうした意味での公共の利益に尽くすことが要求されるのである。「自己保存」と「祖国の安寧」は、分かちがたくひとつのものであると見られている。

頭痛のため中断。明日につづく。