「みんなの意見」は案外正しい

 この本の主張に同意したい気持ちは多いにあるし、それなりに正しいとも思うが、問題の種類を混同している気がしてスッキリしない。確かに油ガマ親父が「ふぁいなるあんさあ」と迫ってくる番組で出される問題や、「この線の長さは」という問いなら、

100人が100メートルを走った平均記録を計算したとしよう。平均記録が、いちばん速い人の記録よりも速いことは絶対になくて、確実につまらない記録になるはずだ。だが、100人が質問に答えたり、問題を解決したりするときには、平均的な回答がいちばん頭がいい人の回答と同じくらい、あるいはそれ以上に優れていることが多い。

この考えに従って「じゃあ、オーディエンスで」と答えて間違いないのだろうけれど、郵政民営化問題etcで「オーディエンス」が有効かというとそれは疑問だ。十分なデータを与えれば大衆でも正しい答えが出せると言われるかもしれないが、それが十分なデータであるかどうか判断できないから大衆なわけで。情報カスケードというか付和雷同というか。でも高給取ってるエリートの判断が無謬というわけでもないのだし、専門外では単なる大衆なのだし、均質的な専門家集団より多様な素人集団の判断の方が正しいこともあるだろうし、だったら「みんなの意見」でいいじゃないと言えなくもないが。

例えばどんな車が売れるかという問い。その答えをだすのは「みんな」なんだから正解にきまってるじゃない。そりゃ過程の多様性は一部エリートの判断による答えでは成立しないものだけど。ベータよりVHSが売れるという答えは正解だろうけれど、VHSを選んだことが正解かどうかはわからない。

ガソリン車が生き残った一番の理由

20世紀初頭のアメリカでは何百という企業がクルマをつくろうとしていた。蒸気や電力を使ったクルマが売られていたのは前述のとおりだが、外観がどうあるべきか、どんな動力が使われるべきかといったルールがまったくない時代だったので、当時のクルマには今日からすると想像を絶するようなバラエティがあった。トマス・エジソンは、バッテリーを使ったクルマを設計したし、ある時点ではアメリカの路上を走るクルマの三分の一が電力を使っていた。(略)20世紀初頭には、何百というメーカーが蒸気をつかったクルマをつくっていたが、その中でもいちばん成功していたスタンレー・スチーマー車のスピードは伝説となっている。1905年、時速203キロを記録したうえに、乗り心地も技群だった。ガソリンを使ったエンジンの勝利は既定の結論ではなかったのである。だが、20世紀最初の10年がすぎようとする頃には、ライバルが続々と戦列から脱落していった。
(略)
[ガソリン車が生き残った一番の理由は]ほかの動力を使うメーカーに先んじて大量生産技術に巨額の投資を行い、マスマーケットに到達した事実である。
(略)
もはや誰も蒸気や電力を使った自動車を話題にもせず、とんでもない形やサイズのクルマがつくられることもなかった。世の中の人みんなが、クルマがどんな形か知っていたからだ。クルマとは、T型フォードの形をしているものなのだ。

下手な鉄砲も数打ちゃ当たるという多様性。

とんでもない成功には非常識なアイディアとそれに乗る非常識な資金提供者とそれを買っちゃう非常識な奴。

このアプローチの成功の鍵を握るのは、絶対成功しそうにもないような大胆なアイディアを後押し、積極的に投資するシステムの存在だ。また、このシステム以上に重要なのが多様性だ。これは社会的多様性ではなく、認知的多様性のことである。同じ基本コンセプトを少しずつ変えただけのアイディアよりも、発想が根本から違う多様なアイディアがたくさん出てくるように、起業家の発想には多様性が必要だ。それに加えて資金を持っている人の多様性も必要だ。分権化された経済のメリットの一つには、意思決定をする権力が(ある程度までは)システムの中で分散している点にある。だから、権力者がみんな似たような考えだと、せっかくのメリットも活かされない。考え方が似ていれば似ているほど、資金提供者に評価されるアイディアも同じようなものになってしまい、一部の権力者たち以外の人の目に触れる新商品の種類やコンセプトが限られてしまう。逆に、資金提供者にも認知的多様性があれば、ものすごく過激で、ありえなさそうなアイディアに賭ける人が出てくる蓋然性は高くなる。資金調達先の多様性が、アプローチの多様性につながるのだ。
とはいえ、資金調達先がどんなに多様でも、大半の試みは失敗に終わる。

均質性は多様性に負ける

(でも大衆が均質化している場合もある)。

だが、集団のレベルで考えれば、知性だけでは不充分だ。問題を多角的に検証する視点の多様性が得られないからである。知性というのは、スキルが入った道具箱のようなものだと考えると、「ベスト」と考えられるスキルはそれほど多くなく、したがって優秀な人ほど似通ってしまう。これは通常であればよいことだが、集団全体としては本来知りうる情報が手に入らないことになる。それはどよく物事を知らなくても、違うスキルを持った人が数人加わることで、集団全体のパフォーマンスは向上する。
なんとも奇矯な結論だと思われるかもしれないが、それが真実なのだ。似た者同士の集団だと、それぞれが持ち込む新しい情報がどんどん減ってしまい、お互いから学べることが少なくなる。組織に新しいメンバーを人れることは、その人に経験も能力も欠けていても、より優れた集団を生み出す力になる。

均質な集団は多様な集団よりもはるかにまとまっている。集団のまとまりが強くなるとメンバーの集団への依存度が増し、外部の意見から隔絶されてしまう。その結果、集団の意見は正しいに違いないと思い込むようになる。自分たちが間違えることは絶対にないという幻想、その集団の意見に対して考えられるあらゆる反論を何とか理屈をつけて退けようと躍起になる姿勢、異なる意見は役に立たないという信念がこうした集団には共通して見られる。

MMT(コロンビア号飛行管理班)にもっとも欠けていたのは視点の多様性だ。元飛行管制官で、現在NBCの特派員であるジェームズ・オーバーグは、同じNASAでもアポロチームのほうが実際にはMMTよりも多様だったと発言した。これは俄かには信じがたい。考えてもみてほしい。1960年代後半のエンジニアは画一的な集団で、全員がおそろいの髪型で、おそろいの半そでの白いシャツを着ていたではないか!
オーバーグは、アポロチームのエンジニアの多くはNASAに就職する前にいろいろな業界で働いた経験を持っていたことを指摘した。現在のNASAのエンジニアは普通大学院からすぐNASAに就職する。したがって、NASA内部に多様な意見が存在する可能性ははるかに少ない。これが問題になるのは、小さな集団にとっては意見の多様性だけが人と人が顔を合わせて議論することのメリットを保証するものだからだ。

これを読むと高給取りのエリート供がファッキンなんじゃあ、一般大衆でやれるんじゃあと、言いたくなるだろうし、「負け組」確定の当方としても同意したいけれど、微妙だ。
たとえば著者は朝傘を持って出るか判断するのは簡単だ、外を見て「みんなの意見」に従えばいいというのだが、それは他のみんなが真剣に判断していたらばの話であって、他のみんなも「みんなの意見」に従っていたら情報カスケードである。つまり正確な「みんなの意見」を知るにはその「みんなの意見」が汚染されていないか知ってなきゃならないわけでそれには専門性が必要なんじゃなかろうか。
 

イノベーションの主役はネジ

1860年代、ウィリアム・セラーズという男がいた。当時の工作機械業界は、1990年代のハイテク業界のような勢いのある業界だった。その中でセラーズはもっとも有名で、広く尊敬を集めている機械工だった。彼は自分がデザインした規格化されたネジをアメリカ中に広めるキャンペーンを始めた。
この頃のアメリカでは、ネジは機械工の手づくりだった。大量生産はできなかったが、だからこそ機械工が自分の職を守ることにつながっていた。毎回毎回特別にネジを誂えるということは、顧客の囲い込みを意味するからだ。旋盤の修理をしてもらうためには、必ずそれをつくった機械工のところに行かなければならない。だが、どこでも同じネジが使われるようになると、顧客がその機械工に修理を依頼する必然性はなくなり、もっと価格に敏感になる。
セラーズは、機械工が何を恐れているかわかっていた。それでも、部品を規格化し、大量生産の道を歩むのは避けられないと考えていた。彼のネジは、ほかのどんなネジよりも簡単に、安く、早く生産できるようにデザインされていた。彼はこれが機械工たちにとっては死活問題であることも、工作機械業界が人と人との緊密な結びつきの上に成立している業界であることもわかっていたので、コネや影響力を駆使して人々に働きかける必要性を感じていた。
そこで、彼はアメリカ海軍など影響力の大きい顧客をターゲットに据え、五年かけて規格化されたネジを使うのが世の趨勢だという雰囲気をつくりだした。(略)10年も経たないうちに、セラーズのネジは全米規格の地位に上り詰めようとしていた。このネジがなければ、工業製品の大量生産に必要な組み立てラインは実現できなかったかもしれない。かりに実現できたとしても、ものすごく苦労したことは確かだ。セラーズが、近代的な大量生産に必要な基礎工事を行ったと言っても過言ではない。
この話は、情報カスケードがよい方向に働いた例だ。セラーズがデザインしたネジは、当時もっとも有力なライバルだったイギリス製のネジよりもあらゆる点で優れていた。優れたネジが全米規格になることで、アメリカ経済は飛躍的な進歩を遂げた。だが、機械工たちが単純にセラーズに従っただけで、どのネジがいちばん優れているか自ら考えることなしに漫然と選んだだけだとしたら、最終的に正しい結論に違したのはまったくの偶然の賜物だ。セラーズのネジが優れたデザインだったのは、本当に運がよかったとしか言いようがない。

集合的な意思決定は合意形成とはちがう

集合的な意思決定は合意形成といっしょくたに考えられることが多いが、集団の知恵を活用するうえで合意は本来的には必要ない。(略)
[最終決定までに]15のミーティングを経るという事実が示すのは、意思決定プロセスの″民主化”を目指した企業も、「民主化=終わりのない議論」だととらえていて、「民主化=意思決定権を広く分散化させること」だとは考えていなかったということである。1960年代後半から1970年代前半にかけて、アメリカ企業をじわじわと冒した官僚的な硬化症の象徴でもある。

芸術的な分野で「みんなの意見」は正しいと言えるか。
本当に優秀な芸術家は芸術的革新と同時に大衆性も意識していて、ゴッホが人気あるのってやっぱりバッチコーイとかましていたからで、あのぐねぐねは芸術的革新でもあったけれど、同時にバッチコーイでもあったはずで、絶対ゴッホは今回のコレは行ったでしょう、バッチコーイって思ってたはずで、一歩間違えば同時代に「みんなの意見」とバッチコーイしていたかもしれない。
頭の固い専門家からすれば斬新さを「なんとなく面白い」で受容してしまう大衆は何もわかっていない奴等でしかないのだろうけれど、斬新さがわかる専門家にある意味近い。当然専門的な文脈の中で斬新さを見出している専門家と、「なんとなく面白い」だけの大衆とでは大きな差がある。でも頭が固いくせに「わかっているつもり」の専門家よりはマシだし、「みんなの意見」は正しいと言える。まあでもそれも芸術家が「みんなの意見」という正解を目指したからであって、(以下繰り返し)。