第一次大戦とイギリス文学

  • 第2章 戦争の観念史(加藤洋介)

若者がふぬけで帝国の危機

新聞や雑誌などのさまざまな文字メディアのなかで、文学は独自の機能を果たした。文学は階級の違いを超えて幅広い読者層を獲得するようになっていたから、中流階級の倫理を労働者階級に広めるのに効果的であった。軍隊の指揮官たちはパブリック・スクール出身のエリートたちであり、規律や名誉や義務のようなパブリック・スクールの教育倫理は彼らを通して軍人の美徳として軍隊の規範にとり込まれた。(略)
文学をとり込んだエドワード朝の軍事化政策の成功は、具体的な数字にあらわれた。サミュエル・ハインズの『エドワード朝の精神的転回』で広く知られているように、1899年に南アフリカで起こったボーア戦争では、入隊を志願したイギリスの若者の六割が身体検査に不合格し、入隊できなかった。大英帝国の衰退と疲弊の象徴として理解されたこの数字は、国内の軍事化の世論を高めるのに十分な危機意識を形成した。(略)
エドワード朝とは、端的に言えば、ボーア戦争の苦戦とその教訓に始まり、やがて起こることになる第一次大戦に備えた時代だったのである。

きれいな戦争

それにしてもエドワード朝の人々が軍事力をこれほど重視したのはなぜか。この問題に答えるためには、エドワード朝の進化思想のパラダイムを理解する必要がある。進化思想にもとづくその文明観において、戦争は国家レヴェルでの生存闘争を意味した。文明化とは戦争という過酷な生存闘争を生き延びて、よりすぐれた国家に発展することを意味したのである。
エドワード朝の進歩主義は逆説を抱えた。軍事化が文明の進歩に貢献すると言っても、戦争が起これば野蛮状態への回帰は避けられない。そこで、自然界の法則である生存闘争と文明の進歩が論理的に矛盾しないことを示さなくてはならなかった。戦争の野蛮性を否定すること、戦争を文明的な行為として明示することが必要だったのである。
そのために軍隊の近代性が強調されたのは言うまでもない。近代兵器で装備された軍隊は未開の戦闘集団と区別され、前者が後者を征服するのは文明化の過程として正当化された。

平和ボケで、タイムマシーンにお願い

エドワード朝の知識人たちが危惧したのは、平和な生活のなかでイギリス人が堕落し、帝国を維持できなくなることであった。満ち足りた生活と緊張の欠如は人間を堕落させ、知性と肉体を退化させると信じられた。H・G・ウェルズの『タイムマシン』(1895)に描かれた未来人の姿は、この時代の人間観をよくあらわしている。

戦争報道はフィクション

この章の冒頭で、戦争の報道は主に文字メディアに頼っていたと述べたが、要するにそれは多かれ少なかれフィクションだったのであり、その一部をスポーツの言語が構成したのである。その結果、グレン・ウィルキンソンが言うように、戦争は「観て興奮できる楽しみや無害な娯楽の一つ」になった。もちろん、戦場の塹壕のなかで死と向き合っていた兵士たちにとって、戦争は娯楽ではありえなかった。スポーツの言語は、報道された戦争と戦場の現実の間に大きなズレを生んだ。兵士たちが故郷の家族たちと戦争の理解を共有できなかった背景には、このような事情があったのである。

鈴木俊次
ラッセルに招かれケンブリッジを訪れD・H・ロレンスはケインズらの同性愛をラッセルへの手紙で酷評。国を滅ぼすと。

ケンブリッジはぼくを打ちのめし、心の奥底までどす黒くしたのは事実です。あの腐敗、沼の淀みの悪臭には耐えられません。ぼくは憂欝なマラリア患者になってしまう。人がどうしてあんなに病むことができるのでしょうか。彼らはまず死ななければなりません。
(略)
それはほとんどぼくには我慢できないものだ。道徳的非難からではない。ぽく自身プラトンを間違っているとは思わないし、オスカー・ワイルドについてもそうだ。ケインズに会うまでは、ケンブリッジで彼に会うまでは、それが何を意味するのか知らなかった。

悪の原理があるのです。きっぱりとそれを認めようではありませんか。ぼくはそれをケンブリッジケインズのなかにはっきりと見ました。それはぼくの気分を悪くさせるものでした。悪の蔓延という認識で気分が悪くなります。それはまるでいつの間にか悪化する病のようです。

ロレンスは大戦下の英国の暗澹たる現状を、英国の知性を代表すべきケインズをはじめとする若きブルームズベリーのメンバーたちの「腐敗」した関係に重ねることで、英国の未来への幻滅と、戦争を引き起こす人間性の「暗部」への認識をいっそう深めたのである。

ロレンスがありとする「同性愛」とは

ロレンスの小説における格闘場面801

二人の男は絡み合い、もつれ合いながら、少しずつ相手の肉体に深く食い込んでいく。………バーキンはジェラルドの大きな体のなかに自分の全身を浸透させようとしているようだった。
(略)
こうして二人は敏捷に、有頂天になって、一心不乱にもみ合った。二つの白い肉体はほの暗い光のなかで、奇妙な蛸のように四肢をもつれ輝かせながら、ますますー体になろうとして激しく絡み合っていった。

異性愛を完全にするための同性愛

「君との関係があればぼくは他に誰もいなくても、他にどんな完全な親密な関係がなくても生きていける。しかしそれを完全なものにし、本当に幸せなものにするには、男との永遠の結びつきが欲しかった。別種の愛がね。」

1913年書簡での同性愛見解

ぼくはどうして偉大な人物とされるほとんどすべての人々が、それを認めているか否かに関わらず、同性愛に向かう傾向にあるのか、そしてその結果女性の身体よりも男性の身体をいっそう愛するようになるのか---確かギリシア人がそうだったと思うのですが---、その理由を知りたいのです。

1919年『アメリカ古典文学研究』にて

クーパーは民主主義の向こうに何を見たのだろうか。チンガチグックとナッティバンポーの不滅の友情のなかに、彼は新しい社会の核を夢見たのだ。つまり、彼は新しい人間関係を夢見た。二人の男の剥き出しの人間関係、性の深みよりさらに深い関係……それぞれが己の奥底に到達し、全き愛を超えた言葉不要の結合。これが新しい社会の新しい核、新しい時代への鍵である。

ここでロレンスが唱えているアメリカインディアンと白人開拓者という男同士の「愛を超えた」ホモソーシャルな深い結びつきによる社会変革という構想は第1章で述べたように、大戦開始後のイギリス社会の変革についてラッセルと議論し合ったときにすでに芽生えていたものである。

これって吉本隆明が毎度言ってるフーコーの同性愛理念だよなあ。別にこの本じゃなくてもどの本でも同じ事喋ってるのでどれでもいいんだけど。とりあえず新刊で。

家族のゆくえ (学芸)

家族のゆくえ (学芸)

暗にアキラetcを指して

いまいわれている同性愛者は「性同一性障害」と名づければ、それと紙一重で、ほとんど真性の同性愛者ではないとおもっている。

アキラとは格が違うんですよと

フーコーはそういう次元ではなく、「同性愛だ」といわせようとおもっている質問者のほうがバカだとしか見えないような答え方をしている。「同性愛者は、個人として社会的な問題(たとえば政治、社会)にどう関与していくべきかという問題だ」と答えている。あるいは「『家族』という中間頂をもたない。それが同性愛者の課題だ」と述べている。日本人だったら、少数派と多数派の問題だなどとはぐらかすところをけっしてはぐらかさない。そして、個人と社会が直接つながるかたちがありうるかどうか、それが同性愛者の問題だという意味のことを答えている。
次元がまったくちがうのだ。

話の流れで引用されてた文章に爆笑。いやあ、いい味でてるなあ。

歌人岡野弘彦はこんなことを書いている。

《あれはいつ頃からのことだったろう。はっきりと時を限って言えるものではないが、折口と同じ家に暮らしているうちに、もし先生がそれを求めるのならば、受け容れてあげてもよいという思いに、自然になってくるのであった》(『折口信夫の記』)

そんなことより吉本さんがオムツですよ。うーむ。
ボクの父もとうとう体を起こせなくなって、オムツに排便しろと言われて拒否してたら、ベテラン看護婦に「今は体力がないんだからしょうがないでしょう」と説得されて、でもそこは譲れない点で、だけど、結局、そうするしかなくて、あとはズルズルと死んでいくだけだった。うがあ。
ま、吉本さんは起きてる時はちゃんとトイレに行ける状態だから、まだ、だいじょうぶだあ。

就眠中の尿もれについてである。(略)
目覚めぎわの「思考」切り替え、急に別のことを考えたときに急に尿意をもよおし、起き出さないと尿もれをきたす。もちろん直ぐ対応してトイレに行ければ洩れないで済む。しかし目覚めた直ぐは身体の運動意欲が鈍いので、紙おむつに洩らしてしまう。