おじさんはなぜ時代小説が好きか

青春小説は書けないから、時代小説にする 

近代小説ではやれなかったことを時代小説はやるのだということを知っておいてください。たとえば、近代文学的センスでは恥ずかしくて青春小説は書けないから、時代小説にするのです。

もうひとつ注目したいのは、司馬遼太郎山田風太郎が「ほんとうは純文学が書きたいんだが」などと最初から思わなかったことです。小説によって生活を立てるという決意があったのはたしかですが、それを「世をしのぶ仮の姿」などとは考えていません。ひと口にいうと、彼らは「純文学」のような個人世界に飽き足らず、より「おもしろい話」を「多数の読者」に提供することこそが文学の役割であると見たのです。大正末から昭和初年にかけ、時代小説という新しいジャンルを開拓した長谷川伸吉川英治山本周五郎などと共通したセンスです。

小僧の神様』と山本周五郎

小僧の神様』が書かれたのは、19世紀的世界が終わった瞬間だということにまず気をとめましょう。
では日本では大正八年になにがあったか。武者小路実篤が「新しき村」をつくりました。それはコミューンでした。(略)
この『小僧の神様』は、ある意味で実篤の壮大な実験に対する回答です。つまり純粋贈与はできないし、純粋な共同作業もできないといっています。(略)
四銭で買えると思っていたのに、あてがはずれた。急激なインフレのせいです。第一次世界大戦好況によってインフレとバブル経済が生じていました。お百姓さんや会社員が株投機に走った時代ですが、この小説の時制の数か月後、大正九年三月に株が暴落し、大正バブルは崩壊します。
小僧の神様』に志賀直哉は当時の経済情勢を、さりげなく、しかしたしかな手応えをもってえがいている。未曾有の大好況、バブルのなかで報われない階層としての小僧をえがいた。それが仙吉という名前の小僧です。(略)
自分が仙吉のようだという意識は山本周五郎にはあったでしょう。自分が純粋贈与が可能かどうかという実験に使われたという思いです。そして志賀直哉のような人を憎み、いつか見返してやりたいと念じながら生きてきたのだと思います。

難解さと西洋哲学の直訳詞を排除しながら発想した新しいジャンル

大正期は大衆化の時代であり、同時に教養主義の時代でした。いいかえると、すでに身分差別はなく、ただ学力と学歴のみで貧乏人の子でも出世できるということです。そのような大衆の教養主義的気分の飢えを満たす小説家という職業が生業として成立しました。小説家はもう新聞社の社員作家とならなくても生きていくことができるようになりました。
教養主義とはどういうものでしょう。それは、教養が人間を高める、ゆえに教養には価値があると考え、青年がそれを身につけることを義務とみなす状態のことです。学術知識とは違います。
(略)
社会がこのような空気のなかにあった大正時代に、吉川英治山本周五郎など時代小説の作家たちが作家的出発をしたという事実は重要です。教養をもとめつつも官僚や大会社の社員にならず、あるいは官僚や大会社の社員になれず、市井にあって自活しようと苦闘していた彼ら、吉川英治の八歳年長の長谷川伸も含め、時代小説とは、教養主義の洗礼を受けた大衆のうちの文学的かつ野心的であった人々が、難解さと西洋哲学の直訳詞を排除しながら発想した新しいジャンルだったのです。

それぞれの武蔵

藤沢周平は、技較べをしようと出向いてきた若い武芸者とは、正面からの戦いを避け、策を弄して殺してしまう初老の武蔵をえがいています。ここには、天才的剣客もまた一般人のように加齢し老衰するというリアルな主題が見えます。
司馬遼太郎の場合は、武蔵の天才はみとめつつ、天才であるがゆえにその技術を普通の人には伝達できないというジレンマをえがきます。「教育」という手段で伝達できるものだけが技術の名に値するという司馬遼太郎の確固とした思想がここにはあります。「教育」になじまない「天才」には意味がない、それは所詮芸術にすぎないという考えかたです。

日本映画と時代小説

若い産業に全国から野心的な青少年が吸引されました。低学歴で、しかし表現行為にひかれ、自分の才能に自信がある青少年です。不良少年あがりの内田吐夢はもちろん、旅芸人の子で小学校にさえ満足に行かなかった稲垣浩もそのひとりでした。(略)木下、成瀬を除けば、みな腕力が強く度胸もある人々です。(略)
彼らの経歴と性格は、ほぼ同時期に文芸上のジャンルとして成立した大衆小説、時代小説の作家たちとおなじなのです。「大衆とともにある」と吉川英治はいいましたが、それはきれいごとではなく、実感と自負をともなった言葉です。すなわち、小津、成瀬、黒沢明市川崑らを中心に、1950年代に世界最高の水準をきわめる日本映画と、大衆小説、時代小説は近代大衆社会の落とし子なのです。ともに、変則的な経歴を持つ才能たちが、「エリート(旧制高校と大学出身者)のつくる「純文学」に対してコンプレックスを抱くことなく、むしろ誇りを持って築きあげた若い表現ジャンルであったということです。

司馬遼太郎の小説の方法

つまり自分は反近代文学をやるんだという宣言です。文学至上主義の立場とはほど遠く、さらに、小説は芸術ではないのではないか、とさえいっています。おもしろい話を書きながら、人に何事か考えるよすがとなるものを伝達する、それが小説ではないのかというのです。技術と方法は、人に伝達されてこそ意味があるという考えを、小説でも実践しようとしています。しかし司馬遼太郎は、近代文学をよく読んだ人でもあります。そのうえでこういうことをいっていることは忘れないでください。ここにあるのは「私小説」への反発、というより「私」 への強い疑いでしょう。司馬遼太郎自己憐憫や卑下自慢を性として嫌っていましたし、その憐憫や自慢の対象となる「私」を軽んじていました。つまり「私」なんかちっとも大切ではないということです。したがって「私」のなかにあると認定された文学的「内面」の存在をも疑っていました。「内面」などない、または「内面」などいらないというのです。

ユートピア小説『蝉しぐれ

城下には日々剣術の稽古に心を鍛えながら、袴の折り目も真っ直ぐに、すばやく歩み去る若い武士がいます。たゆまず家の仕事をこなしながら、天地を恨まない女たちがいて、掘割を流れくだる水のように清涼な印象の娘たちがいます。町家の居酒屋に集って、一匹の冬の鰊を三人で分けながら、卵を抱いたいちばんおいしいところを譲り合う老いた武士たちがいます。
そういう人たちが住む世界はある種のユートピアです。そのユートピア性は、彼らが歩む道、彼らが渡る清流の橋が百年かわらないと頼もしく思われる気持からもたらされます。すなわち、藤沢周平のえがく城下には経済成長や景気変動がありません。経済から自由な世界です。そして「私」から自由です。さらに「進歩」からも自由です。

鴎外の歴史小説

実際、大正時代の大衆は、躍動感と野放図さとをないまぜにした独特の空気を日本社会にもたらしました。「大正デモクラシー」とは、民主主義への傾きと衆愚政治への傾きとのきわどいせめぎあいだったといえます。現代にちょっと似ていますね。古い、江戸・明治的モラルは捨て去られ、しかるに時代に対応する新しいモラルはいまだ見出せない、そういう人心の混乱期は明治末年からすでにはじまっていました。
(略)
鴎外が歴史小説を書きはじめたのはそういう時代です。自由は規律とモラルがあって、はじめて謳歌され得る、野放図な自由は自由の名に値しない、それはただの自堕落とむきだしのエゴの突出に過ぎない、そう鴎外は考えました。その結果の歴史小説です。
そこには、封建期を未開の遅れた時代とみなす時代の気分への強い反感がひそんでいました。