使える!確率的思考 小島寛之

使える!確率的思考 (ちくま新書)

使える!確率的思考 (ちくま新書)

 

「動学的不整合性」理論

「事前には最適である戦略が、実際に時間経過とともに実行段階で必ずしも最適でなくなる」ことを専門のことばで「動学的不整合性」と呼ぶ。この動学的不整合性は、臨機応変な自由裁量を持っているから起きる、といえる。教師が「試験をする」と宣言しても、学生が勉強したあかつきには、その時点になって裁量によって「やっぱりやめた」といえる。しかし、そういう裁量の余地を持っていることが逆に自分の首を絞めてしまうのである。そういう風にその時点になって予定の行為を変更するであろうことを、学生にも事前に読まれてしまい、それを逆手にとって学生は勉強をしないからである。それならむしろ、教員は、「試験の日程を決める」「試験問題を予告する」などして、試験を絶対にやるという「ルール化」をするほうがマシとなるのである。

経済対策の場合では

政府が「インフレにして景気を回復させる」と宣言しても、実際回復すれば、むしろインフレを抑えるのが政府にとって最適なのは、市民にも読まれてしまう。「結局インフレにはならない」と読んだ市民は商品を買わない。だから、景気は回復しないことになってしまい、政府の宣言は空振りに終わるのである。
こういうことが起きるのは、政府がその時点時点で最適の戦略をとるであろうことを事前に織り込んで市民が行動をするからである。
(略)
ここに「裁量」か「ルール」か、という難しい問題が生じる。政府に裁量権があるから、政府の事前の最適戦略は結果として最適戦略ではなくなる。臨機応変が災いするのである。だったらむしろ、「インフレにする」という方針を法制化してしまったほうがまだマシかもしれない。法制化されれば、インフレ政策が法に従うかたちで実行されることを市民は事前に信じることができる。また、政府が不要なインフレ政策をとることも、法律によって正当化できるからである。
キドランドとプレスコットは、このようなモデルを用いて、政府の経済政策にはある種の非効率性がつきまとってしまうことを論証し、ノーベル賞を獲得したわけだ。

この著者の面白いのは、「壁つきランダムウォーク」モデルを使って、「資金がなくなるまで」というルールで勝負したら、貧乏人は金持ちにはほとんど勝てない、と説明したり

BSEにかかって死ぬなど、それこそ「奇跡の大当たり」なのに、人びとはこれを「自分にも容易に起こりうること」のように錯覚する。

と、世間の確率に対する迷妄を丁寧に解いていながら、最後の章で、熱く語りだすところ。

[手術選択を例にとり]医者の選択の正しさを、5年後生存「人数」で測るならば、手術をするのが正しい選択だといえるかもしれない。しかし、患者の側にとってはそうとはいえない。100人のうち89人が5年生存しても、それが自分でないなら、そんなことには何の意味もない。自分は1人しかおらず、今生きるか死ぬかの選択が迫られているからだ。

頻度的発想(期待値基準の発想)を安易に推奨する人には、「工学的」な立場の人が多い。こういう人たちの思考パターンは、とにかく膨大なサンプルを念頭に置く。そして、そこでの期待損害量の大小でものごとの「正しさ」を判定するのである。このような考え方は、政策を施行する立場からは何の落ち度もない。政策施行側の人には、「どの1人の人物に対しても、ある災難が生起する確率が0.01」(事前)であることと、「1万人のうち100人の具体的な人びとに災難が現実化すること」(事後)に、なんら違いが感じられないからである。この人たちにとっては、具体的な個々の人物が問題なのではなく、無個性化した「人数」だけが関心の対象だからであろう。

筆者は、不確実性下の意思決定を考えるうえで、人生における「祈り」とか「覚悟」とかいったものを排除できないように思う。資産蓄積がままならず、憤ましやかに生きる人びとの持つ、自分の生活が次元的変異を起こすことへの「祈り」。もうこないかもしれないが、自分にとってベストではないチャンスを流すときの「覚悟」。そういったいわば「文学的」ともいえる思考様式が、意思決定の問題と本質的に表裏の関係にあるように思われるからだ。

余談。
サクラ散った受験生の皆さん、この本によれば、受験生は前年受験倍率が低かったところを狙う傾向があるそうで、そうなると当然こんどは受験倍率が上ります。つまり、受験倍率が低い所を受けたいなら、前年高かった所を狙えということです。 

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