普段の村上春樹は、

スガシカオ」についての文章を読むと、村上春樹でも触れるものすべてをハルキ調に染め上げられるわけではないのだという事がわかってチョット驚き。一般人・村上春樹スガシカオ談義を聞いているようで、普段のハルキはやっぱり春樹じゃないわけです。ホテルマンは見た、「ゴメンサナイ、私が好きなのは小説の中の春樹さんでした」とかなんとか言われて一人淋しくロンリーナイトなハルキ。
長年、人に語り脳内で反芻してきた思考を春樹フィルターにかけるからこそあの味わいになるのだなあ。自信喪失気味の文章家の方は是非「スガシカオ」の項を読んで自信をつけて下さい。やっぱり文体って、語彙とかテクニックといったフィルターより、練り上げた思考スタイルがまず第一なんだなあ。

意味がなければスイングはない

意味がなければスイングはない

定番のビーチボーイズなら

それはきわめてナチュラルでありながら、同時にきわめて意志的なサウンドだった。構造的にはきわめて単純でありながら、同時にきわめて精緻な感情を伴った音楽だった。僕を惹きつけたのは、たぶんそのような鮮やかな相反性だったのだろう。ちょっと大げさに言えば、まるで頭の後ろを柔らかい鈍器で殴られたような衝撃があった。

こうなるのに、新ネタのスガシカオだと

つまり「ま、こーゆーもんでしょ」みたいな、制度的なもたれかかり性が稀薄であるということだ。だから僕のように、制度とは関係のない中立的な地点から耳を澄ましていても、基本的には、自立した公平なテキストとして、それを受け止めることができる。そういうのもまた僕にとっては、ありがたいことのひとつである。

「四畳半」的な、閉鎖されかけたサーキット内での、ぬめりのある独特の生理感覚があり、その一方で、そこから唐突にすとーんとあっち側に突き抜けてしまうような、あっけらかんとした観念性がある。そのふたつの逆向きの感覚が、微妙な共時性を維持しつつ、柔らかいカオスのようなものを生み出すことになる。

というように思考が生のまま書かれてしまう。これを練り上げられるか、られないか、いやその才能があるかないかが、春樹とヤスケンの分かれ道かもしれない(涙)。

しかし自分には文章を書く才能は基本的にないと、当時の僕は考えていた。本を読むという行為にあまりにも夢中になりすぎていて、自分が何かを書く・創作するという姿が、うまく思い描けなかった。受け手として長い歳月を送っていると、自分が送り手となることが想像できなくなってしまうのだ。
(略)
しかしそうこうするうちに、「何かが物足りない」という漠然とした気持ちが、僕の中に湧いてきた。たぶん、自分がただの作品の受け手(レシピエント)であるということが、だんだん不満に感じられるようになってきたのだろう。そんな気持ちが生じてくるなんて、僕には思いもよらなかったのだけれど。

専業小説家になったあと、五年か六年くらい、ジャズをほとんど聴かなかったことを記憶している。大事にしていたレコード・コレクションにもろくに手を触れなかった。たぶん長いあいだ音楽を職業にしてきたことの反動だったのだろう。あるいはそれは、自分がただのレシピエントに過ぎなかったことへの反動だったのだろうか?