夢の消費革命・その3

前日の続き。

夢の消費革命―パリ万博と大衆消費の興隆

夢の消費革命―パリ万博と大衆消費の興隆

 

経済学者シャルル・ジッド

アンドレ・ジッドの叔父さんでもある経済学者シャルル・ジッド。ソノスジの思想ではあるが「生産より消費」「消費者の支配」という点がミソ。
消費を生産より下に置き、自堕落とみなす人々に反論するジッド。

消費するということは、ただおいしい夕食を食べるだけではない。なぜならー人きりで豪華な食事を奮発するのが好きだというような人はめったにいないからである。消費するということは、何人かの友人を招くことであり、新年に花やキャンディーをプレゼントすることであり、他の人々に、楽しい仲間と一緒にいる喜びを味わってもらうことだ。忘れてはならないのは、食べるというもっとも通俗的で動物的な形態においてさえも、消費は生産よりもより社交的な性格をもっているということである。その証拠に、同じテーブルで一緒に食事をすることほど、親しく交わる方法はないからだ。しかも交流のもっとも厳かな象徽すらも、ひとつの消費行為である。その象徽とは、パンとぶどう酒のテーブル、つまり聖餐のことだ。

消費者の支配は遥か

次にジッドの批判の矛先は、バスチアやその自由主義的継承者である経済学者に向けられる。彼らは消費は経済学の本当の目的であるという理論を口先だけで述べているだけだ。実際問題として、彼らが消費者に与えてもよいと思っている力は、ただ買うのを拒否するという消極的な力だけである。消費者の支配ははるかな理想でしかないのに対し、彼らはすでに達成された事実であると主張するのである。

エコ極道

消費者は自分の責任について無知であると同様、自分の権利についても無知である。消費者は安値だけを求め、それが労働者を殺人的なほど搾取することになるかどうか考えようとはしない。消費者はまた、虐待される家畜や、流行の気まぐれを満足させるために犠牲にされる野生動物、あるいは「近代産業によって略奪されている鉱物、森林、植物、自然資源」に対する義務を考えようともしない。消費者が環境に対する責任に気づかないかぎり、フランスの丘の斜面の広大な葡萄畑は、安い低地ワインとの競争に破れ、消滅してしまうだろう。貯水や小鳥の聖域として機能する森林は、木材の代わりに石炭を燃やさないかぎり、伐採されてしまうだろう。「現在の消費者の役割は何と愚かで低劣なものだろう」とジッドは詠嘆する。「そしてもしそれがうまく機能すれば、世界にとってどれほど効果的で有益であろうか」。

生協極道

消費者を教育することによって、協同組合は社会正義と道徳改革の手段となるだろう。この教育は、具体的でも経済的でもあるが、とりわけ道徳的なものである。具体的とはたとえば、良いパンは練りもののような白いパンではないことを教えることであり、経済的とは、資本の役割やクレジットの危険性、事業を営むことの子細を詳しく説明することである。そして道徳的とは、社会や自然への責任を気づかせることである。協同組合は製品の起源を調べ、組合によって組織された労働者や生産者組合の作った製品を選ぶことができる。また生産者にとって適正な給料や労働条件を強調することもできる。なぜなら仲介業者が、生産面での不愉快な事実をもはや購買者に隠すことはできないからである。

消費者の王国

消費協同組合についてのジッドの構想はさらに進展し、恒久的調和をもった階級差別のない社会を垣間見るところまでいっている。(略)
消費者協同組合の活動は、すべての人々の日常生活に入りこむだけでなく、個別の利害より全体の利害を体現する。経済生活において、消費者協同組合は政治における普通選挙に等しい。「なぜならすべての人が市民であるのと同様、消費者でもあるのだから」。したがって消費者協同組合は階級差別のない社会の萌芽である。やがてこの制度は、自らの工場や農場で自家製のパンやワインや工業製品を作るようになれば、クレジットや保険、さらには生産の責任も負うことになるだろう。(略)
ジッドは「消費者の支配」についての講演を予言者のような高らかな調子で締めくくっている。「19世紀は生産者の時代でした。20世紀が消費者の時代であることを希望します。彼らの王国が来たらんことを」。

故郷ニームの組合が中心となって結成された連合のスポークスマンとなったジッド。

ニーム派と社会主義者との根本的違いとは

社会主義者は生産者の優位を信じたのに対し、ニーム派の協同組合員は消費者の優位を信じたことだった。社会主義者によれば、価値は労働から生じるものであるから、経済的な富は生産者に所属する。一方協同組合派によれば、価値は最終的な効用、つまり消費者の願望の充足によって決定される。さらに社会主義者における階級闘争の概念は、消費者は階級の利害を越えたところにいるという協同組合派の主張と対立した。

「ホワイト・リスト」

ソノスジの人は「ホワイト」好き。バンドじゃなくリスト。アメリカで労働条件の基準を守っているデパートの「ホワイト・リスト」発行が成功したことを知ったブリュンヌ夫人は活動を開始。

同盟の基本的原理は、購買者は労働条件に対して最終的に責任があるということだった。その基本的な目的は、消費者の社会的、経済的な力を、労働条件の改善のために賢く使うことであった。パリの組織のリーダーの一人であるベルジュロン夫人によれば、悪い労働条件を取り除いてだれもがより大きな幸福を楽しめるようにすることで、供給者と消費者は互いに究極的な利益を分かちあうことになる。同盟の「天才的手際」は、労働者にきちんとした待遇をすることが経済的利点になるところにあると彼女は感じた。同盟のホワイト・リストは、人道的な経営者の商売を繁盛させる無料広告の一形態だった。こうすれば生産者たちは、犠牲を払うように求められるのでなく、痛みなしで消費者との「公平な合意」に達することができる。
『もし私たちが個人的に、自分たちの要求の結果を何らかの方法で確かめ、指で触れることができるならば、自分たち負っている責任をよりよくひきうけることができるかもしれない。私たちは多数派である。そして多くの立派な会社で成された悪事の不愉快な面はほとんどわからないでいる。だれもが日曜日に新鮮なパン菓子を食べたいと思う。女たちは皆、復活祭のために新しい帽子やドレスを注文する。その結果がパン屋やコックの少年、仕立て屋やその職人にとってどうなるか考えてみる人々はどこにいるだろうか。』
購買者が道徳的責任に気づかないでいるのは、生産と消費が分離しているせいでもある。その理由はおもに、生産者側が分離を望んだからにほかならない。

フェミ極道

ジッドのほうでも、消費者として直接女性に訴えかける組織があることは、きわめて希望に満ちたものであると考えた。彼はずっと以前から、女性は一般に、家族のために多くの買い物をしており、生産者と消費者の区別は男性と女性の区別にほぼ等しいことを認めていた。しかし消費における役割の不均衡にもかかわらず、消費者協同組合で買うことにもっとも強く抵抗していたのは女性であった。ジッドはなぜ女性が近くの食料雑貨店で買いたがるのかを理解した。近くの食料雑貨店の便利さは、「たいていの場合疲れていて、いろいろな雑用でほとんど自由な時間のない主婦にとって、非常に重要なこと」である。そうした店の親切さやちょっとした個人的好意は---クレジットが可能なことは言うまでもなく---もっと大きな協同組合の店には存在しなかった。さらに協同組合では、主婦は自分が使うすべてのお金をノートに記録するという苦労と屈辱を堪え忍ばねばならなかった。(略)彼はフェミニズム消費者運動は、生まれながらの同盟者であるとみなした。(略)

連帯を熱く語ったジッドの孤独

ジッドの信仰心は、その忍耐力や魅力もそうだったのだが、人をおびえさせるような冷たくよそよそしい態度の下に隠れていた。彼がようやく口を開くと、その話しぶりはしばしば乱暴なほど率直で皮肉混じりであったために、ますます相手の恐怖心を煽る結果になった。ジッドは細心なまでに誠実であったが、自分の誠実さを如才なさと組み合わせることはできないようだった。彼の社会的な不器用さは、臆病さと神経質な性格、耳が不自由なことに大部分由来するものであったけれども、だからといって彼の標的となった人々が受けた屈辱が軽滅されたわけではなかった。(略)
連帯の使徒ジッドの性格の逆説的なところは、愛を表現したり他の人々に近づいたりするのが実に苦手であったという点にある。彼は10人ほどの客間では、無愛想に立っているだけだが、講堂では多数の聴衆に向かい、友愛について熱のこもったスピーチをするような人間だった。

アンドレ・ジッドは叔父の死に際してこう述べた。

きわめて誠実な愛情を抱くことのできる人間であったが、つねに抽象的なきらいがあり、観念の領域を除いては、人の心に入りこめず、また自分の心も開かなかった。私はこれほど賛嘆の念をひきおこしながら、これほど共感の気持ちに水を差す人間を想像できない。彼はつねに堅実で首尾一貫し、自らに忠実でありながら、思想を通してしか他者を理解できず、また思想を通してしか他者から理解されなかった。(略)
彼は観念的存在のあいだで生きた。愛や友情でさえ、彼の心に到達するには非個人化されねばならなかった。しかしその心は集団に対しては、この上なく強く鼓動することができたのだった。