ウンコな議論

ウンコな議論

ウンコな議論

  • 「頭の腐った連中」のウンコ議論空間が「ふかし」を呼ぶのだ、とブチかまそうとした山形浩生の目論みはもろくも崩れ去り

山形浩生センセイが突如「頭の腐った連中が大騒ぎ」と開き直ったわけとは。その答えがこの「ウンコな議論」なのでありました。予定では「ウンコ議論」砲で一郎の頭上にたちこめた暗雲をなぎはらい、人々は痴将・山形を畏怖し、年末の話題は「ウンコ議論」一色になるはずだったのだが、あの「大水計」の悲劇で世界は暖かい失笑に包まれたのでありました。「嘘とふかしは全然違いますからぁ」「嘘をつく気ならもっとうまくやってますからぁ」というセンセイの魂の叫びが聞こえてきます。

  • ウンコ本の大筋

「これが真理だ・真実を伝えよう」「嘘をつこう・だまそう」どちらの場合も目的を達成するには緻密な論理展開が必要になる。その論理がウンコではないのは、それが「真」だからではない、別に「偽」であっても構わない。明確な目的のために緻密に展開されていればそこにウンコが介在する余地はない。ところが権威が失墜し、懐疑主義相対主義が蔓延すると、言うべきこと・言いたいことがなくなり、その場の空白を埋めるためのどうでもいい粗雑なウンコな議論が交わされることになる。明確な目的がないために論理が粗雑になる。

  • 山形のきもピアスの閃きとは

ちゃんとした論理の場では真理を述べたり、「嘘」をついたりできる人も、ウンコ議論空間に置かれれば、ウンコ議論空間の性格上、そこでなされる発言はどうしてもその場のウケを狙っただけのいい加減なものになる。ふかしてしまう。「そうだ!嘘とふかしは違う」「ウンコ議論空間におけるふかしが問題なのであれば、その責めを負うべきなのは、ウンコ議論空間を形成している「頭の腐った連中」なのである。」

  • 本文を引用して説明してみよう

ウンコ議論の本質

彼女の発言は、それが真であるという信念にも基づかず、嘘であれば必然であるような真でないという信念にも基づいてはおらぬ。かような真実への配慮との関連欠如---物事の実態についてのこの無関心ぶり---こそまさに、吾輩がウンコ議論の本質と考えるものなのである。

ウンコ議論空間参加者の態度

参加者全員が承知しているのは、そこでの人々の発言が必ずしもその人物の本当の信念や本当の気持ちを述べたものに非ずということである。重要なのは、高度な率直さを可能にし、問題となっているテーマについての実験的、冒険的なアプローチを行うことである。したがってある種の無責任さを楽しめるような約束が取り交わされ、人々は言質を取られる不安なしに思うところを伝え得るようになる。

某小説のシンプソン父は「ウンコ議論で押し通せるときには絶対に嘘をつくな」と息子に教えた。嘘とウンコ議論のちがいとは。

見破られたときの落とし前は、ウンコ議論者のほうが嘘つきより軽くてすむことが多いと言いたかったのかもしれぬ。実際、人々は嘘よりはウンコ議論や屁理屈のほうに寛容である。(略)
嘘は、鋭い焦点を持つ行為である。(略)ある程度の職人技術が必要とされ、そこで嘘の語り手は、自分が真実だと思う物によって課される客観的な制約を受け入れることになる。(略)
一方、ウンコ議論や屁理屈で押し通そうとする人物にはずっと多くの自由度がある。この人物の焦点はピンポイントではなくパノラマ的である。(略)必要に応じて文脈をでっちあげることも辞さないからである。

「ウンコ議論者はわれわれを騙さないかもしれず、また事実やそれに関する自分の見解について、騙そうと思ってさえいないかもしれない」
嘘つきは「偽」を自覚しているが、ウンコ議論は真と偽どちらの側にもいない

真実を知っていると思っていない人物は、嘘をつくことはできぬ。ウンコ議論や屁理屈には、そうした前提は必要ない。嘘をつく人物はそれにより真実に反応しており、その意味で真実を尊重しているわけだ。正直者が語るとき、その人物は自分が真実だと信じることしか語らない。そして嘘つきの場合、当然ながらその人物は自分の発言が偽だと信じていることが不可欠である。しかしウンコ議論屋にとって、これはどれも保証の限りではない。その人物は真実の側にもいなければ偽の側にもいない。その目は正直者や嘘つきの目のように真実のほうを向いておらず、単に自分の発言で切り抜けるにあたって有益なときだけ事実のほうを見ている。自分の発言が現実を正しく描いているか気にしない。目的にあわせて適当に選び出し、あるいはでっちあげるのみである。

みんな僕みたいにリコウだと苦労はないんだけど、大概バカなわけですよ。だから簡潔明快な解答をしてもピンとこないの。物足りない顔するわけ。しょうがないからウンコ議論を付け足してやると、バカなクライアントはやっと納得するわけ。ネットでバカ相手に仕事しなきゃならない人の場合は、さして必要のない薀蓄を披露したり、さらには「頭の腐った連中」相手にもわかる低級な「ふかし」で刺激してやらないとバカが満足しないわけ。で、明快な解答を抱えた人間にすれば、付け足しのウンコな部分はどうでもいいことなのよ。「頭の腐った連中」にサービスしてやってるどうでもいい部分なの、遊びなの。本当は簡潔明快に切り込めていたのに、それをついサービスしたばかりに「ふかし」とか言われて散々ですよ。かわいそうな一郎。「ふかし」を呼んでいるのは、バカなお前らのウンコ議論空間なの。そんな空間に入れば知的な一郎も「ふかし」てしまうの。一郎が本気で嘘をついてたらもっと緻密な嘘をついてるわけ。悪いのは「頭の腐った」お前らなの。一郎と僕だけだったら、ツーとカーですよ。簡潔明快にわかりあえちゃうのに、もう「頭の腐った連中」のバカバカバカ。

  • 結論

まあ「大水計」がなくても、山形往生際悪いなあで済んでたんだろうけど、いやそれにしてもメンドクサイことですなあ。とりあえずhttps://kingfish.hatenablog.com/entry/20040904kingfish.hatenablog.com人は何故メンドクサイ言い訳をするのかよく考えてみようか。