ミルトンと急進思想

ミルトンと急進思想―英国革命期の正統と異端

ミルトンと急進思想―英国革命期の正統と異端

王の首をはねた狂信的理念

1649年1月のあの寒い日にチャールズの首をはねたのは、厳密にはいわゆるピューリタンでも、オリヴァー・クロムウェルの率いるピューリタンのなかのインデペンデント派の兵士達でもなかった。クロムウェル自身は、始めから終りまで王制の打破は考えていなかったと言われている。とすると、あの時の軍隊を王の処刑へと実際に動かしたのは、もっと別種の独特で異様で狂信的で急進的な宗教的勢力だったと言える。王を処刑台におくったのは、軍隊というより当時の急進派の狂信的な理念だったと言える。その理念はいささかの穏便さを許さず、たちまち是非とも実行に移されて証明されねばならぬ信念だった。他方、王政復古を早めたのはむしろピューリタンだったと言える。

共産的体制への嫌悪が王政復古へ

神に選ばれた新しい選民は、そうでない衆愚を導き支配し、神の道へと万人をひっぱってゆく権限と義務がある。こうして、この理念に基づくピューリタニズムは全面的な神政を目差すものである。このピューリタニズムがその論理と倫理の結果として当然のように到達したのは、選民の私有財産権の主張とかその保護であり、英国革命当時の宗教的急進派の抱いていた万人平等説や財産の共有に基づくいわゆる共産的な体制の否定だった。このピューリタニズムの理念が、予想以上に早く王制を復古させたと言ってよいと思う。

世は徹底して宗教不寛容の時代だった。

プロテスタントは徹底して反カトリックであることによってしか、何ものも定位できなかった。現代のエキュメニズムというような考え方は全くなかった。こうしてミルトンも徹底して反カトリックだった。反カトリックであることによってしか自己のアイデンティティーを確立できなかった。ミルトンほどの学識あった人が、全面的にカトリシズムを曲解したのをみる時、当時の不寛容の信念の凄まじさをみるような気もする。良心の自由ということは、原始教会からカトリシズムを通してルターに流れ込み、これがルターに大きな内心の葛藤になることをミルトンは考慮にいれなかったと言えよう。

王制打破

並行してミルトンの王制打破という考えは徹底していた。王制をもつヨーロッパのすべての国で、王制は廃止されるべきだという考えをもっていたようだ。共和制によるヨーロッパの連合体が作られるのを望んでいたようだ。英国がその先頭に立ってリーダーシップを取るべきとも考えたようだ。この時も、万人の平等というラディカリズムがそのための大きな根拠だったと思われる。王制打破のためなら、ミルトンがあれ程嫌った司教制度さえ黙認すると考えた時期さえあったと言われている。

急進セクトの正規教育否定

彼等は一切の既成の社会的な権利や権限を否定し既成の社会制度や聖職権なども否定したから、こうしたことから素人の説教家や職人説教家などを生み出した。このことは、当時の急進諸セクトの作り出した制度のなかでも最も特色あるものだったと言えよう。つまりここでも内心で神の霊感を受けたと確信した者こそ、たとえ無学文盲であろうと直接神に選ばれた者であって、キリストを宣言するのに最も相応しい者という考え方があった。このことから正規の教育は否定され、大学は否定され、必要な教育を受けて正当な資格を与えられた聖職者による説教などが否定された。やがてこうした急進的なセクトの思想は当時のピューリタンを中核とする軍隊にも浸透していって、最終的に王制打破に消極的だったピューリタンを突き上げる形で革命は遂行され王制は壊されたのが実情だったと結論づけられる。

自由と必然

ここにもミルトンの特徴である自由と必然という問題が提出されている。何事も機械盲目的に必然に生起するのではなく、すべては自由が原因であり結果である。天使と人の堕罪は自由の結果であり、たとえ神はこれを全能性から予知していたとしても、それが機械的な盲目的必然性から起るように永遠の彼方から神によって決定されたり命令されたりしたのではない。「確実に起ること」と「必然的に起ること」とは全く遠う。前者は自由を前提とし、後者は自由を無視する。ここにミルトンのカルヴィン予定説の全面否定がある。そこで、ミルトンは原罪の結果の機械的な受け渡しも否定した。ミルトンは誰の心にも潜む原罪傾向は否定しなかったが、原罪が人の自由選択の力や自己克己の力を無視して、父祖から単に形式的に機械的に受け渡されるということには反対した。(略)
ともかくミルトンによれば、キリストさえも、キリストが神の子となったのは生得権によるのではなく、自由に基づくキリストの徳によって天父から子としての資格を受けたのである。