街場のアメリカ論

街場のアメリカ論 NTT出版ライブラリーレゾナント017

街場のアメリカ論 NTT出版ライブラリーレゾナント017

別に目くじらを立てる本でもないけれど、なまじブログの方もチェックしているものだからツイツイからかいたくなってしまった。
出版前に依頼殺到で嬉しい悲鳴をあげていたので、エラク浮かれてるなあと思ってたのだけれど、今になって考えるとアレは内田樹建築士の悲痛な叫びでありました。
実際読んでみると手抜き本、こりゃひでえなと思っていたら、案の定クレーム殺到なのか、ブログで言い訳が展開されていた。

つまらない本を読まされる読者諸氏も不幸であるが、それ以上にこちらが「やりたくない」と言っている仕事を「いいからやってよ」と強いられて、あげくに「つまんないね」と言われる私も不幸である。

まさにイジリー岡田姉歯建築士ソウル炸裂、出版社にすべての責任を押し付ける態度である。きっと編集者は村西とおるボイスに違いない。確かにあの数値では駄本ができることはわかっていたのですが、どうしてもと言われてしょうがなく、とのこと。全く反省の色なし。
アメリカに切り替えた

ですよ。そりゃアメリカじゃなくて西洋ですよ。ムチャクチャですよ。アメリカって言いたいだけですよ。
適当にアメコミを取り上げて、ヒーローと一般市民という二面性の乖離に苦しみ、ヒーローとして活躍すると誤解されてバッシングされてしまう、アメコミヒーローはまさに国際社会の中のアメリカのセルフイメージだ!と力説するのですが、ああいうものはねえ、世間から相手にされない一般人が本当の俺はヒーローなんだと夢みて読むものなんですよ。世間から誤解されたり馬鹿にされたりしてるけど、俺は本当はヒーローなんだと夢みて読むもんなんですよ。不遇な一般人を想定して書かれた物語は大抵そんなものですよ。日本のヒーローものだって似たような構造ですよ。えっ、なにそれは全てアメコミに影響されているからだと?もしかして「泣いた赤鬼」までアメコミだと主張するのか。
何故巨大ロボが日本で受けるかといえば、自衛隊と九条とのねじれ、日本とアメリカとのねじれ、を物語的に解決しているからだ、とヨタ話。

「私が存在することの正統性を与えてくれ」というのが「汚れたモンスター」から「汚れを知らない少年」への悲痛なメッセージなんです。

日米安保条約です。「モンスター」は「駐留米軍」あるいは「アメリカの核の傘」です。[少年」は「自衛隊」です。駐留米軍は脱着自在の「モビル・スーツ」にほかならず、その心臓部、操縦主体はあくまで「少年」でなければならない。この物語はアメリカの実質的な軍事的支配下にあることの屈辱感を解消するために要請されたものだと私は思います。

こういうのは酒の席で適当に当て嵌めて面白がるヨタ話ですね。別になんとでも言える話なのだ。しかも、御丁寧にも同じ本の中で網野先生の受け売りを展開していて

中世の日本では子供が自由と神聖性の象徴であったということ、それゆえ大人の統御をまぬかれ、むしろ大人たちを嘲弄したり、批判したりする攻撃的な存在であることにその社会的役割がありました

じゃあそれでいいじゃない。単にその呪術的能力を現代的にしたのが巨大ロボなのです、で済む話じゃない。巨大ロボには自衛隊アメリカも関係ないのよ。理解されないヒーローはアメリカだけの話じゃないのよ。
こんな調子で「アメリカ」というお題で「マックのコーヒー」ネタまで開陳ですよ。もう内田建築士の頭の中のアメリカ総動員。薄いなあー。こんな薄い手抜き本であるからして、ちゃんと「異色の」という言い訳をつけてあるのに、マヌケな業界団体の某氏は

紹介文には「異色」とあるけれど、これほど真っ当なアメリカ論はないのではないか、と僕なんかは思う。

となんとか「知ったか」コメント、玉葱リーダー気取りで表彰状贈呈ですよ。
お昼のワイドショーに引っ張り出されて
「内田先生は大学教員という収入があって生活に困ってるわけでもないんですから、依頼を断ることもできたわけですよね」
「ですからブログでも手抜きだったと」
「現に、こうして手抜きマンションが建っちゃってるわけですから、どうなさるおつもりですか」
「右傾化する日本を憂える気持ちから、つい」
「誰も、そんなこと期待してないですよお、アナタに」
エラソーな顔したC級お笑い芸人に突っ込まれる内田一級建築士でした。

「ヤマダくん、あの本取って」「背が高いから、取りやすいだろうと思うの?」「ヤマダくん、スズキどこにいるか知ってる?」「背が高いから、遠くまで見えると思うの?」「ヤマダくんてバスケうまいね」「背が高いから、どんくさくてもゴールできると思うの?」……なんて言い出したらきりがありません。でも、性意識の強い人というのは、少しそんなヤマダくんに似ています。自分の言動についてのどのようなコメントも、どのような評価も、すべては自分の性に関連づけて解釈する人の不自由さを私は少しもよいことだと思いません。

こんな風にバカフェミを弄ってるくらいがよろしいんじゃないでしょうか。
面白いところもあるけれど、悲鳴を上げてまで出す程の本じゃないよなあ。まあ、こちらはいつものように図書館で借りているので全く損害はないけど。
わあ、なんかエラソー。