美と礼節の絆・その3

前日の続き。

衣料革命。

[日本での綿栽培は15世紀にはじまり、17世紀に入って爆発的に拡大]
綿はまた、染料や模様の染付けともよくなじんだ。したがって綿生産の勃興によって、普通の日本人も歴史始まって以来初めて、きれいに色づけされてさまざまな模様がデザインされた着物を身にまとえるようになったのだ。これ以前の時代には、美的に魅力的なデザインの衣服をまとうという贅沢は、絹を購える連中だけのものだった。安価でしかも保温性のある綿布の供給が増えた結果、普通の人びとの日常衣料に革命が起こり、徳川のファッションの社会的基盤が築かれた。寛永‐寛文期(1624-73)には、綿は庶民の日常衣料として定着した。国内での綿生産の増大によって初めて、民衆の着物ファッションの物質的・経済的な基盤が出来上がったのである。

なぜ活字印刷から木版印刷にもどったか

  • 厖大な活字が必要となり初期投資費用が高い
  • 活字だと次の本のためにバラす必要があり、再版の際には再度活字を組むことになり不経済
  • 草書体・イラスト・ふりがなが可能なのは木版

徳川の商業的出版者たちが木版へと回帰したことは一見文化的保守主義の所産のように思われるけれども、彼らはビジネスマンとしての優れた経済的インセンティヴによってこの方法を選好したのである。日本の企業家たちを木版印刷へと立ちもどらせたのは、商業化へと向かう彼ら出版者たちの強い起動力だった。日本におけるこうした歴史経験がもつ意味は、テクノロジー至上主義で歴史の変化を説明することの限界を指し示していること、つまり印刷機械の導入が出版産業繁栄の必要条件ではない、という点にある。

商業的に成立していた江戸の演劇

近世ヨーロッパの国王ないし貴族の庇護の下で運営されていた王立劇場にあたるものは存在しなかった。徳川社会の大小数多くの劇場が入場料を運営基盤とする商業施設だったという事実を考えると、徳川期における民衆的演劇文化の力強さはおどろくべきものだ。近世ヨーロッパの王立劇場に相当するものなど一つもなかったし、すべての劇場が民衆の払う入場料で運営されていたのだから。そしてこのような劇場と商業出版を媒介として、作家と役者と出版者とを結びつけたメディアミックスというべき創造的実験が行なわれたのである。

日本の躾は禁止命令による西洋の伝統とは異なる

日本の正式マナーやエチケットはそのからだ訓練の伝統を、第9章で検討した中世芸能独特の美学理論と共有していた。中世芸能の独自性は、物理的次元でからだを美しく念入りに鍛え上げることと、人格的・内面的な修養を深めることとの関係性を重視したことにあった。からだとこころの一体化が現実化するのは、芸能におけるからだの動作訓練の反復を通してと考えられた。このような芸能の見方を推し進めていけば、礼法においても、これをするなといった禁止条項を重ねていくというより、一種のシナリオのように作法の手順を一つひとつ学習し、真似ていくという手つづき重視のやり方に落ち着いたのも不思議ではない。決められた通りのしぐさを反復励行して身体動作の美しさを獲得することが、日本の礼法コードにおける身体制御の主要なメカニズムとなった。

教養ハンドブックがつくりあげた「日本」

教養知識を満載した大衆向けハンドブックの出版によって、こうした蓄積情報が次第に暗黙のうちに、日本と呼ばれる空間には美しい伝統があるという大枠のイメージの下に収束されていった。(略)
まるできらきらと七色に輝く万華鏡の模様のような、さまざまの知識の要約断片がページごとににぎっしり詰まっているこの時代のハンドブックを手に取ると、この時代の人びとの、自分の立つ位置を知りたいという燃え上がるような知識欲と熱意を感じる。(略)
ページをめくる読者の前に立ち現われてくるのは、一見てんでんばらばらなこれら教養知識の断片群なのだが、そこからは期せずして豊かな歴史遺産や文芸伝統をもつ「日本」というイメージが、ゆらゆらと立ち上る陽炎のように出現するのだった。ヒエラルキーにもとづく礼節規準がこの日本イメージと結びついたのだが、それはこの礼法の規準が高貴なる美の伝統の一部と考えられたからだった。こうして「日本」と呼ばれる空間は、ある一貫した文化と歴史の伝統に恵まれ、そこには教養ある人がとが身につけるべき共通の知識があるというイメージが、いかにも既定の事実であるかのごとく、読者の前に現われてくるのだった。マニュアル恐るべし。それは意図せずして「日本」というものをつくり上げるマニュアルだったのだ。

天皇をシンボルとした

急速な近代化を可能にしたのは、そうした文化的イメージだった

それまでいささか焦点があいまいだった日本という空間の文化的イメージは、明治国民国家の建設のなかでより先鋭なイメージヘと鍛え上げられた。(略)
国民国家の形成は通常、市民個々人の身分平等化を進める国内プロセスとして理解されている。徳川の日本は、政治的には統合体となっていたけれども、その大名領国制や厳格な身分差別ヒエラルキーはとても国民国家と言えるものではなかった。もっと言えば、長期にわたる徳川の将軍政治が維持しつづけたのは、全日本人の統一よりも国内的差異を重視する制度分節化政策だった。徳川期の日本がわれわれに提供しているのは、近代的な意味での国民国家の勃興以前に、集合体のアイデンティティーに関して大雑把ではあっても強固な認知ネットワークが立ち現われていた、という興味深い実例なのである。

重なるネットワーク

重なり合うネットワークの交点に位置している諸個人は、新しい知識が流入する開かれた回路へとつながっていた。たとえばすでに俳諧のようなしっかりとした広がりのある仲間組織のー員となっていた人が、蘭学国学といった新しい知識のネットワークに参入した場合には、その人が結節点になってすでにその人が属している俳諧その他の趣味のネットワークの仲間までが、そうした新しい知識の幾分かを手に入れることができた。とくにその結節点となる人が、他のネットワークでも影響力のある人であれば、国学的または蘭学的発想も自然と影響力を増すことになる。