ヘーゲル伝

ヘーゲル伝

ヘーゲル伝

ヘーゲルは保守反動じゃなくて時代状況の中でギリギリ反体制で、有力保護者の死去で庇護も失い、コレラで死んでなきゃ弾劾されていたかもしれず、いやそもそもその死すら謀殺の疑いあり。

公にはエンガチョされた葬儀

[葬列に]学生たちが大勢居合わせたことの意味は、劇的ともいいうるような、〔他の人びとの〕欠席という事実によって強められる。すなわち、いかなる政府関係者も、巧みにヘーゲルを保護してくれた人物でさえ、葬儀に出席していないのである。もちろん、いかなる宮廷人も---非常に敵意を抱いていた王太子や、臣下のひとりに向けられるごくわずかな注目の気配にも嫉妬を覚える国王その人を引き合いに出すまでもなく---参列していない。「当局者」は、知られているかぎり、型通りのお悔みの言葉さえ表明しなかったし、いわゆる「プロイセン絶対王政の哲学者」の死に関していささかの哀惜の念も、偽善的なかたちですら、示すことはなかった

神学院が形骸化していった時代に入学

将来のみえない状況のなかで、不安な魂の最初の避難所となるのが神学院、すなわちテュービンゲンルター派神学校である。とはいえ、それは幻影であって、その魅力は急速に失望へと変わっていく。
しかしながら、最初は、なんという誇りであったことか。
公国の給費を与えられた人びとは、希望に夢を膨らませて、威厳に満ちた「施設」に入っていったのである。そこには、素靖らしい在学期間を証明する署名と、宗教ならびに君主に仕えるための特別な未来の約束が用意されていた。人びとがそれなりの真摯な気持で引き受けることを誓った牧師の仕事は、それぞれの村でいまだかなりの程度の尊敬をうることができる職業であった。
(略)
[体制を支える従順な牧師をつくるための]
神学院は少しずつ逸脱的、分裂的傾向に汚染され、その全体主義的構造に亀裂が入るようになっていた。無一文の青年たちは、教養の手段を手に入れるために、あたかも宗教的召命に献身するかのごとき態度をとった。したがって、人びとはしばしば神学院のことをたんに「奨学金」と呼んで、それのもつじっさいの社会的機能をうまく表現したのである。
人びとは次第に、公国の給費が完了し、研究課程が終結したあとで、神学院生たちがその義務を果たさず、牧師あるいは神学上の職務に就かないことを許容するようになっていた。

ノロマなカメでした

シェリングは、17歳で神学院に入学を許された。優等生であり、すべてに堪能であり、創意に富み、自分を信じ、傲慢で、成功と栄光を渇望していたかれは、輝かしい、性急な、しかも対照的な未来を約束されていた。かれは何年ものあいだ、友人ヘーゲルの知的活動と創造性に刺激を与えた。一方、ヘーゲルはかれより鈍重で、オクテではあるが、しかしいっそう真面目で、そのうえ方法的かつ体系的であり、かれのことを一種の師匠のように見なしていた。人びとは、「シェリングの弟子ヘーゲル」と呼んでいたのである。

牧師職を拒否したため、貴族の下男(家庭教師)になる。生涯の半分まできて父の遺産でようやく経済的隷従から開放される。イェーナでは員外教授、その後も新聞編集者や貧弱ギムナジウムの校長、ベルリン大学教授に辿り着いた時には人生残り三分の一弱。

懐疑的学生に確信を与える

ある種の好戦的な精神がイェーナ時代の哲学を支配している。ヘーゲルは真理のために、同時にまた地位を手に入れるために戦う。学生たちは、恐れの入り混じった賛美の気持ちをこめて、いっさいの物事に、またいっさいの人びとに打ち勝つと称しているこの師を眺めたはずである。マックス・レンツの言う通り、ヘーゲルの成功の秘密は、「断層をもたない体系を説明するにさいしての、かれの限りない確信」である。
それまでの出来事や教育によって懐疑的になっていた学生たちが必要と感じていたのは、そのような確信なのである。
馬上のナポレオンのように、書斎の椅子に馬乗りになったヘーゲルは、死屍累々たる哲学の戦場を凝視することができる。

ヘーゲルの手紙に描かれる1810年の日常的悲劇

「最近、フォン・ハラー氏なる人物が自分の頭にピストルの弾を打ち込みました。上院議員フォン・シュトレーマーの妻は自分の娘の子供を水中に投棄し、いまや場内に投獄されています。近頃、自分の娘と近親相姦の罪を犯した男が間もなく車責めの刑に処せられることになっています。娘の方も同時に断首の刑に処せられるでしょうが、その理由は両者とも子供を殺したからです。他の娘たちもまた妊娠しています。(略)ときおり、川で溺れた女たちが見つかることもあります」

明白な批判は不可能だった

マルクスは、ヘーゲルが公刊された『法の哲学』のなかで、監獄制度を「思弁的に」正当化したことを遺憾に思っている。しかしながらマルクスは、ヘーゲルが夜中に、完全な違法行為を犯して、しかも銃撃を受ける危険をも省みず、弟子のひとり、友人のひとりが収容されている独房の換気窓を通して、かれと話をしようとしたことがあるのを知らなかった。
世襲財産と刑務所制度を明白に批判したならば、『法の哲学』の公刊は、いま、ここにおいて[かれの時代において]は不可能になったことであろう。

イギリス批判という遠まわしな方法さえ検閲で削除される

「その生まれや富によって役職を手に人れる人は、同時にまた、その役職を行使するための知性を天賦のものとして受け取るというような偏見が、イギリスほどしっかりと根をおろしているところはもはや他のどこにも見出すことができない」
知性をもたらすかのような生まれというものへのこうした言及は、直接、プロイセン国王に関わるものであった。