- 記録されていなくても著作物である
- タイトルに著作権はない
- ルポルタージュに著作権はない
- アイディアはパクってよし
- 作風の模倣は自由
- キャラは借用できる(ビジュアルは駄目だが)。
- ウォーホールのキャンベル缶
- 作者:福井 健策
- 発売日: 2005/05/17
- メディア: 新書
記録されていなくても著作物である
こうやって譜面、譜面とくり返すと、紙に書かれていなければ楽曲も振付も著作物ではないのかと誤解を与えそうです。これは、必ずしも書かれている必要はありませんし、記録されている必要もありません。たとえば即興演奏の場合、譜面に書かれていませんがメロディも歌詞もありますから、これは立派な著作物です。ただ、書き留めたり録音しておかないと再現不可能かもしれない、というだけの話です。再現不可能でも著作物は著作物です。ですから、即興演奏を誰かが無断で録音して発売すれば、著作権侵害になります。
タイトルに著作権はない
小説の一行を真似するのは自由であるし、当然タイトルに著作権はない。すると「星の王子様」邦題問題は当然。
いわゆる普通名詞はその代表格です。たとえば、小説や絵画の題名である『舞姫』や『ひまわり』など、それ自体は別に森鴎外やゴッホが創作した言葉ではない。『はげ山の一夜』や『アルルの女』のように、もう少し複雑なものでも、それだけを取りだして特定の作家だけに独占させるには短すぎます。
事実に著作権はない、従って
ルポルタージュに著作権はない
「何人も事実を独占することはできない」のです。この原則は事実・実話に基づいて小説や映画、TVドラマなどを創作する場合に、常にかかわってくる問題です。ライターの立場であれば、「他人の書いた作品から、断りもなく題材を採るとはけしからん。取材するのに、いったいどれほど苦労をしたと思っているんだ」と、このように感じられることはあるでしょう。(略)
かつて筆者は、「事実の発見者の権利は認められないのか」というルポライターの方の発言を伺ったことがあります。
しかし、どれだけ苦労して事実を掘り起こして、埋もれた事実に光を当てたとしても、事実である限りは著作物ではない。ですから著作権が認められることはありません。これを「額の汗は報われない」といいます。冗談のようですが、アメリカ法では本当に「スウェット・オブ・ザ・プラウ」(額の汗)の問題といいます。ただし、事実をライターが非常にうまく構成して、おもしろく書いた。書き方を工夫したり、自分の想像や創作を交えて書いた場合には、その工夫したり、想像を交えた部分は著作物かもしれない。
真面目なルポほど損をするようであります。すると著作権についての本も事実の部分は当たり前だがパクリ放題ということか。
アイディアはパクってよし
なぜなら、アイディアは原則として誰でも自由に使えるからです。アイディアは著作物ではないから、それを思いついた人が独占することはできません。
アイディアは自由に使用できる。ところが、それに肉付けした具体的な表現は、著作物として作家が独占できる。この「アイディア/表現」の区別も、著作権の基本的なルールのひとつです。
実際には、アイディアだけを思いついて作品は作らないケースは少ないでしょう。そうすると、先ほどの評伝から事実だけを参考にする例と同じで、他人の作品からアイディアだけを借りるのは自由だということになります。他人の作品から「表現」を借りてはいけない。なぜなら、それは著作物だから。ただし、他人の作品に触発されて、そのなかにある「アイディア」を借りるのはかまわない。なぜなら、それは著作物ではないから。
作風の模倣は自由
なぜならば、アイディアは人のあいだで広まり、どんどん再生産されるべきだという基本的な発想があるからです。いいアイディアだから独占させるのではなく、いいアイディアだからこそみんなで分かち合えるようにしようというわけです。
[その延長として]
作風は真似てもよいということです。作風の模倣のことを「パスティーシュ」といいますが、これをするのは自由です。
ここで著者はアイディア勝負のような現代芸術を問題にしています。ツルツツに磨いた卵とか便器とかはどうなるのか。便器ネタは一切アウトなのか。それともコンセプトはアイディアだから借りてもいいのか。実際レヴィーンがブロンズ便器を発表している。
キャラは借用できる(ビジュアルは駄目だが)。
「名前」「性格」「基本設定」というものは、一般的には、どれも著作物ではないといわれています。実際、日本の裁判所は「キャラクターというもの自体は著作物ではない」という判断を示したこともあります。そこで、研究者のなかには「だから他人の小説のキャラクターだけを借りてきて、別なストーリーの小説を書くのは著作権侵害ではない。著作物を使っていないのだから」という有力な意見があります。
これはどういうことかといえば、勝手に続篇を書いてもかまわないということです。(略)
あくまでも「別な作家が勝手に続篇を書いている」ことが明確に示される形で発表されるべきでしょう。
今のように著作権がうるさかったら名作は生まれていなかった。『ロミオとジュリエット』の30年前にブルックによる長大な詩物語があり、実はこれにも種本があって16世紀のイタリアのバンデッロの散文物語、つまり代々翻案されてきたものなのである。
翻案が珍しくない時代とはいっても、同時代の方から借用するのはあまりほめられたことではなかったらしく、シェイクスピアは生前、少なくとも一部の人からは盗作を批判されていたようです。同時代の劇作家で、ロバート・グリーンという人物が死の床で書いた文章で、「われわれの羽毛で着飾った、成り上がりのカラス」として攻撃されている人物がいるのですが、それはシェイクスピアのことだ、といわれています。「われわれの羽毛で着飾った」という表現は、つまり「他人の作品を使っている=盗作・剽窃」を指しているようです。
「典型的な幸福な夫婦」の土産物絵葉書をそのまま等身大像にして訴えられた「大衆文化のイメージをキッチュに再構成する」作風のジェフ・クーンズ。絵葉書のパロディであると主張したが敗れる。
クーンズは果たしてロジャースの作品を諷刺・批評したかったのか。裁判所は必ずしもそうは見ませんでした。クーンズが諷刺したかったのは現代社会そのものであって、別にロジャースの作品や世界観が対象ではないのではないか。「だったら、別にロジャースの作品を便う必然性はなかったはずだ。単にロジャースの作品を使うと便利だから使ったにすぎないだろう。それではフェアユースの根拠としては弱い」というのが、裁判所の印象だったのでしょう。
ウォーホールのキャンベル缶
さてそうなるとウォーホールのキャンベル缶はどうなるのか。ラベルのデザインを諷刺したかったわけではなく、それが象徴するイメージを対象にしているのである。それなら必ずしもキャンベルでなくてもいいだろうと言われてしまう。
たしかに、ウォーホール作品のようなポッブアートは、狭い意味のパロディとは違いますね。しかしそれでも、ウォーホールにとってはキャンベル缶という存在がまとっているなんらかの「意味」が語る対象だったわけです。それを使うためにキャンベル社の許可が必要だったり、キャンベル缶もコカ・コーラの壜もモンローの写真も使わずにそれらが象徴するものを語れ、というのは芸術表現にとってはかなりの制約になる気がします。
クーンズやウォーホールには、他人の作品をそのまま取り込む必然性はあったのか? この問題を考えようとするとき、筆者はほとんど絶望的な無力感にとらわれます。
パロディがオリジナルの競合品となって売り上げを低下させるのは「市場での迷惑」になるが、その批評性による「評価の低下」は問題ではない
『プリティ・ウーマン』事件の連邦最高裁はこの点について、「評価の低下」は著作権が問題にしている「市場での迷惑」とは違う、と述べました。仮に、人気のある作品について非常に辛辣なパロディが作られて、それで人々が「このオリジナル作品はいいと思っていたけれど、そういえば陳腐な、底の浅い作品だな」と思うようになって、売上げが落ちたとしますね。それは甘んじて受けろ、というのです。