知識の社会史

知識の社会史―知と情報はいかにして商品化したか

知識の社会史―知と情報はいかにして商品化したか

15世紀の教師の愚痴

あるイタリアの人文主義者は、十五世紀後半の手紙のなかで、仲間にこう語っている。「つい最近まで国王の知遇を得て楽をしていたのに、不運の星の下に生まれたんだね、今では学校を開いているんだ」。学校や大学の主に法学部の教師の給料は、不運の星の影響があろうとなかろうと、一般的に低いものであったから、このような反応があったとしても容易に理解できよう。

国家機密

たとえば、インドとアフリカについての知識を、ポルトガル政府は国家機密として扱った。1504年マヌエル国王は、海図作成者がコンゴより向こう側の西アフリカ海岸を描くことを禁じて、さらに現存の海図を検閲のために提出するよう求めた。ポルトガルの薬剤師トメ・ピレスがみずからの東方旅行について書いた今日では有名な旅行記『東方諸国記』は、マヌエル王に宛てて書かれたもので、香辛料の情報が含まれていたために、機密扱いだった。(略)
1711年に、ブラジル在住のイタリア人イエズス会士がアントニルの偽名で出版したブラジル経済に関する書物『ブラジルの文化と富』は、ただちに発禁処分になった。どうやらそれは、外国人にブラジルの金鉱山への道筋を知られることを恐れてのことであったようだ。

東インド会社と情報

この時代に情報の商業的価値に気づいていたという際立った一例を、VOC(連合東インド会社)として知られるオランダの東インド会社の歴史から見ることができる。VOCは「多国籍」企業と評され、また、帝国に匹敵するほど情報に必要な諸装置を愉えていた。この会社の成功は、(その他の諸要因もあるが)その「効果的な情報網」、対抗する他社を寄せつけないほどのその情報網のおかげであると考えられている。VOCはその領土を測量調査することに関心を寄せていて、その地図と海図を絶え間なく更新していた。有名な印刷業者のブラウ家の面々は、1633年から1705年まで、VOCに地図制作者として雇われていた。言い換えれば、有名な地図帳には載っていないような秘密の情報を含む、手書きの地図の制作者として雇われていたのである。海図制作者は、これらの海図に情報を印刷しないこと、会社の構成員でない者に情報を公開しないことを、アムステルダム市長のまえで宣誓しなければならなかった。海図は航海に使うために水先案内人に貸与されたが、あとで返却することになっていた。それでもやはり、ときには相当の代価を払えば外国人にも入手可能だった。

剽窃ヴェネチア

15世紀には、ヴェネチアで印刷される本はヨーロッパの他のどの都市よりも多かった(約4500種類の版があって、これはおおよそ200万冊の本になった)。競争は激烈だった。印刷業者が産業スパイ活動を行なうことも、つまり製作途中の本の印刷用紙を入手して、ほとんど同時に同じものを出版して競い合うということも、知られざる手法ではなかった。最初に著書の著作権が認められたのが当時のヴェネチアであったのは、不思議ではない。

もっと図書館を!

この時代に公立図書館の数は倍増し、利用者の数も閲覧できる開架図書の数も倍増した。例えば1648年にパリのマザラン図書館を、開館時間に定期的に利用した学者は80名から100名いた。ウィーンの高等図書館は1726年に公けに開放されたし、パリの王室図書館も10年遅れて公開された。18世紀後半までには、閲覧書を記入する印刷された用紙が用意されるようになっていたが、それでも当時の大衆作家セバスティアン・メルシエは不満を漏らしている。「これほどの蔵書があっても、週に二日しか公開されないし、入館しても二時間半しか利用できない……館員も尊大な態度で対応し、市民の役に立とうという気構えがない」と厳しい。

サミュエル・ジョンソンモンテスキュー

「彼はね、奇妙な意見をもっともらしく見せたいときは、いつだって日本とか、自分の知らない国々の風習を持ち出すんだ」

新聞を信じるな

起きたばかりの出来事についても、複数の報告が食違いを見せることがあり、そのため近代初期の読者は、ますます分別ある懐疑主義者になっていった。1596年にあるイギリス人が述べているように、「われわれは毎日多くのニュースに接するが、それらは矛盾しているときでも、みな真実であると言い張る」のである。17世紀になると簡易新聞が刊行されるようになり、たとえ「事実」の報告であっても決して信用できない、ということを、ますます多くの人びとが知るようになった。というのも、例えば戦争のような出来事について、対立する食い違った記事が、大都市では同じ日に届けられ、容易にそれらを比較し対照することができたからである。このような新聞では、以前の号で急いだため誤って伝えた内容を、後の号で訂正することがあったが、まさにその公正な態度が、ますます多くの読者を批判的な眼でニュースを読むように仕向けたのである。