鶴見俊輔のちょっといい話

はじめて読む有名人シリーズ。難しい文章を読む気がしないので、愛唾蜜男な気分で、鶴見俊輔集2の泣けるとこだけ。そんなもんじゃねえの。

先行者たち (鶴見俊輔集)

先行者たち (鶴見俊輔集)

反戦集会がうさんくさいんDEATHと乱入アナーキスト

どの戦争も、平和を目的としてたたかわれた。「戦争をなくすための戦争」(第一次世界大戦の時の米国政府のかけごえ)、「東洋平和のための戦争」(中日戦争の時の日本の流行歌の言葉)は、その戦争がすぎた今となって見れば、あわれである。(略)
大正時代に、日本が「戦争をなくすための戦争」という理想をわが身にひきよせて、青島攻略などわずかの出費で大きなもうけを得た時代に、反戦の理想をかかげる知識人の集会があった。青島攻略のおこぼれにあずかるなどという日本政府のやりかたをけがらわしいと感じる善意の知識人のあつまりである。その会に出てきて、テーブルの上にあがってごちそうをけちらしたという辻潤(1884-1944)の話をきいたことがある。まわりにいる人たちは、辻潤がなぜそういうことをしているのかわからなかったそうだ。その席にいた秋山清は、平和のためにせよ政治に人間をくわれてしまうのはくだらないという気分をつたえるためだっただろうという。そのメッセージがつたわったかどうかわからない。その席にいた平和主義者のうちながいきしたものは、中日戦争-大東亜戦争のあいだに軍国万歳をとなえる人となった。辻潤は、大正時代にかちえた有名人の座を使って戦争中もあちこちまわって旧友にめしをめぐんでもらうことができたはずだが、東京のアパートにひとり住んで、戦争下の一九四四年にうえ死した。
辻潤の生き方にはすじがとおっており、感動する。うえ死は平和を守るひとつの確実な道だと思うが、それだけではないような気がする。

メイドさん」を弄る白樺派と書くとすごくいやらしいな。「花田清輝の方法」より

鶴見俊輔は、『白樺派の多くにとっては、女中との肉体的な関係をもつことが、最初の深刻な人生問題であった。武者小路、里見、志賀、有島生馬など。』といっているが---しかし、わたしは、むしろ、そこに、かれらの『最初の深刻な人生問題』ではなく、かれらの最初の美の発見をみたいとおもう」(略)
女中の美を見出すことができないで、ゴッホが偉大だ、なんてばかり言っていれぼ完全なニセモノになるわけでしょ。ゴッホが偉大だと思い、同時に女中は美しいと思った。本気で結婚しようと初めは思ったわけだ。そこに白樺派の力の根がある、と花田は見るわけです。そこのところをどうして見ないのだ、と。白樺派の美学の根にはそれがあるじゃないか、ということを、私に、今度は逆の方からたたいて言うわけですね。さらにそれを、ひきのばして言うんです。
柳宗悦などは、日本民芸館をつくって、おのれのコレクションを、いっぱんに公開しているのだから、もはやいじりの域を脱しているといえぱいえるかもしれない。しかし、それは、われわれを、赤坂の料亭へ招待して、芸者をみせながら---いや、芸者ではなく、女中かもしれないが、『美しいでしょう?』といって自慢しているようなものであって、あんまりほめてぱかりもいられないのである」
これが、柳の民芸運動の批判になっているんです。要するに、私をからかっているわけです。

三島由紀夫ロココ主義&宝塚主義で死んだらよかったのに

[『春子』を]敗戦直後によくも書けたなと思うんです。ほとんど目的抜きで、進歩思想も、右も左も、何にもありゃしないんです。ぱあっとそういうものを書いている。そのとき三島は本当に孤影悄然としていましたね。(略)
時代との関連というのは、むずかしいもので、時代に対して一人でかろうじて立っているというときは、何事かができるときです。だけれども、時代という巨人の肩の上に乗ったときは恐ろしい。(略)
だから私は、三島にとっての危機は、彼が迎えられるようになってからだと思います。(略)
私の個人的な感想を言えぱ、私は衆に逆らった『春子』に感心した、その気分の延長線でいえぱ、金は十分にあるんだから、三島はスペインに流れていってゆっくり暮らして、そして闘牛士になって、もう四十を越していてあまり動きがないから、スペインの牛の角にかかって無意味な死を遂げる、そういう日本人が一人ぐらいいたっていいじゃないか。ロココ主義で宝塚主義でしょう。それこそ私が望む限りでの、三島の文学の大成だ。そのように私は思うんだけれども、三島はそう思わなかったらしいし、いまの三島の読者はそう思わないでしょう。

息子に死なれ失明寸前、嫁に口述筆記を頼めば妻が嫉妬、どんづまり状態。だが物語に自分と幼い孫を投影したら、これがおもしろいおもしろい。知識階級の崩壊をどうのりきるのか。

毎日が苦しくて、こんな仕事なんかしないで、縁側で日なたぼっこでもしていたらどんなに楽しいだろうか、そうしたら少年のような何も思わぬ愉快な境遇に達しただろうなあ、ということを馬琴は日記に書くんです。
その状態のなかで作品を書くということは、言いかえれば、十歳の子供と七十歳の家来が力をあわせて難攻不落の城を倒すという、まさにその状態なんだ。だから、全力をこめてそこを荒唐無稽の話を書いている。つまり十歳の主人が八歳の孫の太郎であり、七十歳に近い馬琴が家来のわけだ。
ここで花田清輝が言うのは、馬琴の家庭生活が一つの身ぶりになっている、ということです。これは、封建的なしきたりなんかから切りはなされていると言うんです。いかにも封建的に、孫に株を買ってやったり、というようないろいろなことを考えているように見えて、実は、封建も近代も何もないある状況を馬琴が生きているんだ、と言うんです。息子の嫁を協力者として、必死になって波をこえていく馬琴の姿は、その身ぶりそのものが、封建時代、つまり前近代的でありながら、実は近代を超えて未来に向っている姿を象徴しているというんですね。
これが、戦争中の花田清輝をはげます仕組みになっているんです。芸術にはそういう力がある、ありうる。
ここで、花田清輝は、”教養の転落”を問題にしている。馬琴は、その当時としては大変な教養人です。若き馬琴にとっては、徳川封建時代にはそんなに教養のある人はいないんだから、持っている教養をひけらかすだけで特権階級になれた。よりよい階層として君臨していた。それが、息子に死なれ、自分は目が見えなくなって、転落していくわけです。その時に、壮年期まで彼を支えていた教養が、階級的な象徴では全然なくなった。もはや階級的なとりでではなく、自分自身が生きていくのを支える力です。外面的には印税を得るということであり、そして内面的には自分を支える思想となったわけです。だから最後には、特権を放棄したような、まっぱだかの教養人として、江戸時代のただなかに馬琴はあらわれてくる。

日本に接して廃人となった西洋人

メキシコの人類学者リカルド・ダマレからきいた話である。彼の友人のスウェーデン人が日本に旅行して、都市のさまざまなところからわきでてくる西洋古典音楽の断片に、頭をこづきまわされて、廃人のようになってヨーロッパにもどってきた。そのあとは、ヨーロッバでも安らかに暮せなくなったという。ヨーロッパの交響楽こそは、ヨーロッパの文化の中からはぐくまれた良いものだとこのスウェーデン人は信じていたが、それが日本にきてみると、ばらばらにされて、突拍子もないところから部分としてとび出てくる。部分に解体されてロポット風に組立て直される、異様なヨーロッパ文化のうけつぎに直面する思いだった。
その作品が作りだされたもとの状況と無関係に、ヨーロッパの作品が、再生され、解体され、部分として大量に売り買いされている社会として、このヨーロッバ人は、日本を受取った。