大東亜戦争でいいの?

さて大東亜戦争という言葉を使いたがる人はどんな人だろう?逆の意味で朝日を熟読してる人?Wiki大東亜戦争言論統制で太平洋戦争なんてフヌけた呼び方させられて、ごらあ、栄えある大東亜共栄圏じゃ、なんの遠慮があろうものか、という叫びが聞こえてくるのですが、鶴見俊輔がこんなこと書いてた。

日本は、すでに10年間にわたって、宣戦布告のない戦争を続けてきていました。いまや日本政府は宣戦布告を行ったので、戦争状態に対して名前をつけなくてはなりません。政府の会議で、いくつかの名前が、あげられました。たとえぱ、太平洋戦争とか、対米英戦争とかいうものです。最後に選ばれた名前は、「大東亜戦争」でした。これが選ばれた理由は、候補としてあげられたほかの名前が、この新たに宣戦布告された戦争の真実の原因となった中国とのあいだに続いている戦闘状態を含まないということでした。
日本敗北に続く年月に、日本人は米国政府から貸与された眼鏡を通して過去を見て、この戦争を主として米国に対する戦争として考えるようになり、こうして、中国との戦争という脈絡からこの戦争を切り離すようになりました。そうすることによって、日本人は、長いあいだ軍事上の弱者として見てきた中国に敗けたという不名誉な事実を見ないですますことができました。

これだと大東亜戦争はその手の方々の傷口をえぐる呼称になるのだなあ。アメリカさんには負けたけど、アイツラにはこれっぽっちも負けてませんからー、切腹
そもそも、ゾルゲ事件の尾崎が民族主義者と紙一重共産主義者だったという話の中に上の引用がありまして、

彼は日本共産党ともソビエト・ロシアの国際共産党ともつながりをもっていませんでした。彼は一人の独立した共産主義者であり、中国の民族主義ならびに中国の共産主義に深い共感をもつ、民族主義者に近い一個の共産主義者でした。日本人を守るためには、日本人が、西洋および日本の帝国主義のクビキから自らを解放しようとしている中国人と力をあわせなければならない、と彼は考えました。

美濃部ではなく右翼論客に師事

[帝大に入学した]尾崎は大正期の民主主義を代表する学者であった美濃部達吉には心を惹かれず、むしろ美濃部の対立者であった上杉慎吉という、そのころ東大における右翼運動の代表的論客であった憲法学者に、惹きつけられました。おもしろいことに、尾崎は、上杉慎吉教授に対して生涯にわたって敬愛の念をもち続け、獄中で書いた書簡にも自然な愛情をもって旧師を回想しています。(略)
一九三四年、日本共産党がいく波もの集団転向を通して解消してしまったころに、尾崎は日本に戻ってきて朝日新聞本杜で働くことになりました。このころから彼は中国問題評論家として目覚ましい活動をするようになり、中国共産党についての理解を通して発揮される深い洞察力によって注目されるようになりました。この公然活動と並行して、彼は総理大臣への助言者として、政界の楽屋裏でひそかに働くことになりました。

逮捕、死刑後も右翼から愛惜された尾崎

彼の主任弁護人となった竹内金太郎は硬骨の国家主義者として知られていました。この人は、尾崎をその死に至るまで弁護し、尾崎を真実の愛国者として評価していました。(略)
尾崎の分析によれぱ、運動の主要な打撃目標は財閥と軍閥との結合であるべきであって、天皇制は、その際、二次的意味をもつだけにすぎない飾りであるということです。彼自身の自己評価によれぽ、彼は民族主義者とほとんど境を接するところにいる一個の共産主義者でした。まさにこの故に、尾崎の活動は、敗戦後といえども、日本共産党によって公然とした評価を与えられない期間が長く続きました。

司馬遼太郎じゃないのよ、鶴見よ

日露戦争のさなかにあってさえ、日本国家の指導者たちは、国家の直面している状況について冷静な判断力を失わず、その故に、彼らは日本の国力と英米諸国民の共感が尽きないうちにロシアとの戦いをす早く終らせなければいけないという国家の必要を忘れませんでした。彼らは、彼らがロシアを負かしたなどという幻想によって彼ら自身を騙すことはしませんでした。指導者のあいだにこの共通の自覚があったからこそ、陸軍と海軍の最高司令官たちは、内閣に日本にとってほんの名目上の利得だけをもたらす程度のすばやい講和の締結を許しました。指導者たちは戦時にかもしだされた世論の動きに背いて決断することを恐れませんでした。(略)
日露戦争の終ったあとで、そのときまでに生き残っていた明治維新以来の新政府の指導者たちは、いまや彼らが西洋先進国に追いついたという見方をとって、緊張を和らげました。(略)
[弛緩し華族制度をつくり自分達を祝う]
彼らのその後の努力は、明治維新についての物語をとりまきに繰り返すということで、繰り返すうちに物語のなかで占めた彼ら自身の姿が、さらにさらに偉大なものになっていきました。

朝鮮工芸への愛着故に日韓併合を批判した柳宗悦

彼は、注意深くその批評を工芸と美術の領域に限り、政治そのものについて直接に批判するということをあまりしませんでした。しかし日本の日韓併合から一〇年たっても二〇年たっても、彼はけっしてこの既成事実に屈することなく、日本と朝鮮とのことを「この二つのくに」と書くことをやめませんでした。この一貫した態度は、彼がすでにふみ込んでいた集団転向の時代には、きわめてまれでした。歴史家内藤湖南の指摘に基づいて、柳は、日本政府が国宝に指定した多くのものが、政府代表と国家主義者たちがこれらこそ日本文化の優越性を証明するものであると声高に説く風潮にさからって、これらは虚心に見るならば朝鮮から日本に移住した朝鮮の工人の残した仕事であるとのべました。

ああなんか、こういう話題にすると雰囲気が暗いネ!日本人て暗いネ!
とりあえず今あまり真面目に本を読む元気がないので、明日も鶴見で(うわあ大センセイを馬鹿にした態度DEATHね)。