哲学の冒険・その3

そのつもりはなかったのだが、前日より続いてしまった。

哲学の冒険―「マトリックス」でデカルトが解る

哲学の冒険―「マトリックス」でデカルトが解る

インビジブル』を題材に何故道徳的であるべきなのかと。

1.宗教的理由・神が許さない
しかしこれは神の罰が怖いという打算的理由であるし、宗教自体が弱体化している
2.社会契約論
道徳的にしないと抵抗され反撃され顰蹙を買い結局自分が損をする。これも打算的理由である。
ところが「透明人間」であれば、抵抗もされなければ、反撃もされないので他人を気にすることなく好き放題できるじゃないか。

社会契約論によれば、他者と契約を結ぶ目的はただひとつ、あなた自身の利益を推し進めることである。しかし、他の人々があなたにとって潜在的な脅威あるいは潜在的な助けとなる場合のみ、あなたの利益は彼らによって推し進められる。だから、そうでない人々と契約を結ぶのは意味がない。
また社会契約論によると、社会契約は道徳性の範囲と限界を決定する。(略)
しかし、これは裏を返せば、社会契約の対象外の人や物には何の義務もないということでもある。そして究極的には、あなたにとって脅威ではない人、あるいは助けとはならない人、あるいは脅威でも助けでもない人に対しては、道徳義務がないということでもある。

では例えば無人島にあなたと無抵抗な赤ん坊だけだとして、社会契約の対象外の存在であるから、煮るなり焼くなり好き放題にできるものだろうか。できない。そうだ、やはり人には道徳心があるのだ。しかしこれは「なぜ道徳的であるべきか?」という問いへの単なる「因果説明」である。

ヒュームが言っていることは結果的にこうなる---「基本的に我々はお互いを好きだから、道徳的理由を打算的理由より優先させることもある」。これは、「なぜ、そんなことを言うのか」と聞かれて「口を動かしたから」と答えるようなもので、打算的理由よりも道徳的理由のほうが優ることを正当化するものではない。
でも、どうして正当化する必要があるのだろうか?
それは、手に負えない透明人間のケビン・べーコンを非難するための材料が必要だからである。彼が道徳的に正しいことをする「べきである」ということを示したいからである。

さてここでカントの「定言命法」がでてくる。「同時に普遍的法則となることを意志し得るような格率に従ってのみ行為せよ」というもの。わかりやすくいうと「道徳的に正しい行動は論理的に矛盾がない」逆に言えば、論理的に矛盾している行動は道徳的ではない。例えば約束を破るという行為はどうなるか。

約束を破るというポリシーは、それ自体の土台を崩すことになる。もし誰もが決まって約束を破れば、すぐにどんな約束もされなくなり、それゆえ約束は破られないことになる。言い換えると、これは「矛盾した」ポリシーなのだ。
「したがって、約束を破るというのは道徳的に間違っている」とカントは言う。
ここでカントのことを誤解しないでいただきたい。
約束を破ると厄介なことがたくさん起こるので、約束を破るのは間違いだと言っているのではない。そのようなことを言うのは結果主義者である。また、「もし」あなたが他人と仲良くやっていきたいなら、彼らとの約束を守るようにせよ、と言っているのでもない。カントの見解における道徳性に「もし」はない。道徳に関する意見には、「もしXを望むなら、Yをせよ/するな」という形はないのだ。たとえば、「もし隣人とうまくやっていきたいなら、そこの奥さんとセックスをするな」という形はないのである。そのようなことを言うのは社会契約論者である。

再度、カント「定言命法

本質的にカントの定言命法は、黄金律を専門的に言い換えたものである。つまり、あなたが取る行動が正しければ、その行動は他の誰が取っても正しく、また他の誰が取っても正しくない行動ならば、その行動はあなたが取っても正しくないということだ。
つまり、あなたが何らかの行動を取ろうと考えているなら、その行動は他の誰でも取れるものかどうか自問すべきだということである。そしてもし、矛盾なくしてすべての人が行動を起こすことができないなら、その行動は、あなたにとっても誰にとっても正しくないということだ。

実践的命法の中心となる考えは公平性である。
「誰も」がみな手段としてだけでなく目的として扱われるべきである。そしてこれは、あなた自身にも当てはまることだ。(略)
誰もがみな平等の敬意を持って扱われるべきである。他人の目的を達成するための手段でありながら、目的自体でもあることに見合った敬意を、誰もが平等に表されるべきなのである。
このように、カントは無矛盾性と公平性の観念に基づいたシステマテイツクな道徳体系を築く。

ラク話が上品になったところで、「カントはもっとブラックだ」という悪カント本登場の予定。