哲学の冒険・その2

前日のつづき。

哲学の冒険―「マトリックス」でデカルトが解る

哲学の冒険―「マトリックス」でデカルトが解る

 

昨日もぐだぐだだったが、今日は自由意志でさらにわけがわからなくなります。その前に、

ホッブスと自由意志」

id:kingfish:20050111)から一部を参考のために再掲。

お前はすべて「必然」だというが、こうしてお前の悪口を書く「自由」が俺にはあるじゃないかという論争相手に対して、ホッブスは書く書かないはあなたの自由であって問題は書きたいという「意志」がどこからきているかなのだと答えている。

欲望等から本人の意志で行動した場合たしかに「強制からの自由」ではある。だがその欲望等は「必然的」に決定されており「必然からの自由」ではない。つまり「ヤリタイ」と思った時にやるやらないは自由だが、「ヤリタイ」という衝動は既定のものなのだ。

この本で問題するのは政治的な自由ではなく、「形而上の」自由である。
マイノリティ・リポート』は決定論を扱っている。決定論者は全ての行動には原因があるとする。つまりあなたが何かしようと決心したことにも原因がある。するとその決心をもたらした原因をもたらした原因があり、さらに・・・と無限に因果関係の線がのびていき、コントロールできない原因につながっている。いやいや世の中はもっと複雑だ因果関係の線が交差する迷路である。

この迷路の中で、あなたは選択をする。つまり、無数の線の中で「n番目」の列を選んだとする。この列を選んだということは、その後に起こる欲求や決定や行動を「n」列に従って展開させることを選んだわけだ。
しかし、この選択ははたして自由なのか?

決定論と予定説のちがい

決定論とは、今我々が何をやるか選択できないという考えである。我々の現在の行動、選択、そして決定は避けられないものであり、違う道に進むことはできないのだ。だから、決定論に従うと、将来は確かに決定されているが、それは現在が決定されているからであり、その現在も過去に起こったことによって決定されているのである。他方、予定説の前提によると、我々は今違ったことをやってかまわない。今何をやるか選択できるのだ。ただ、それによって将来が変わることはない。だから、決定論では将来は過去と現在によって決定されているが(よって現在は将来とも過去とも関係がある)、予定説の見解に従うと、将来は決定されているが、現在とか過去によって決定されるのではないのである。

予定説ならばトム・クルーズが何をしようが犯罪は起こる。だが決定論の考え方に従えば、未来の犯罪は過去と現在によって決定されるから、プリコグの予知に基づいて犯罪は予防することができる。

しかしこれは、その殺人が結局のところ起こらないと運命付けられていたことになる。十中八九起こりそうなことを予知するのではなく、実際に起こることを見る能力があるとされているプリコグは、実際には起こらないことを見ていることになりはしないか?
これは犯罪予防局の存在理由および、司法の正当性を根本から覆してしまう話である。なぜなら、彼らは実際には何もしていない人を拘束してしまうことになるからである。

そんな決定論に対する非決定論者もいる。原因のない行動があってもよい、従って自由というものもある、という考え方だ。おお素晴らしい、自由の可能性があるのなら、非決定論がいいじゃないか。だが、待て。突然君の右手が理由もなく他人を殴りつける。原因のない行動である。

さて、あなたはこれを自由だと思えますか。

ある朝とても元気良く目覚めて、今日はどんな思いがけないことがあるんだろうとワクワクしていたら、突然自殺しようと決心する。なぜ?理由はない。まったく何も。
何の理由もなく生じる決定とはこんな感じである。ただ突然そこに生じ、あなたにはその理由がわからず、そして実際のところ、何の理由もない。自由決定とはこんなものではない。本来の自由決定は、あなたが感じ考えることと何らかの関係がなくてはならず、何の理由もなく起こるはずがないのだ。それは、あなたに何らかの決定権があるものでなくてはならない。

何かの原因で行動が引き起こされたら、そこに自由はない。「因果律と自由は両立しない」そう考える点では決定論者も非決定論者も同じである。それに対するのが

両立主義者。

ヒュームのような両立主義者によれぱ、自由の反対は強制であり、因果律ではないのである。それゆえ両立主義者は、強制された場合のみ私の行動は自由ではないと主張する。正しい道筋で引き起こされた行動なら、何かの原因で引き起こされてもなお自由でいられるのである。

両立主義者への質問。
1)Aは自分から部屋を出て行った
これはA自身の欲求によるものだから自由行動である
2)Aは拳銃を突きつけられたので部屋を出た
これは拳銃による強制だから自由行動ではないか?だが待て、Aの死にたくないという欲求が脅迫を有効にしているのだから、これもまた自由行動ではないのか。
いやしかし、1)の場合はAの部屋を出たいという欲求だけだが、2)の場合には拳銃という外的原因が絡んでいるから、やはり自由とはいえない。そう考えるとすると、1)の場合でも部屋を出て会いに行こうとする相手がいるという外的状況があるかもしれず、2)と同じことであるとも考えられる。
3)Aは拳銃を突きつけられて、窓から転落したので、部屋から出た
これはAが「した」ことではなく「起こった」ことなので、行動ではない。自由をウンヌンする以前の問題だ。
ということは行動とみなされるものは、常に内的要因と外的要因が組み合わさっていることになり、強制されているかいないかで自由を判断する両立主義は成立しないことになる。
さてそこで

主体因果説が出てくる。

両立主義によると、行動が自由となるのは、それがあなたの欲求(内的状態のひとつ)によって引き起こされた場合である。しかし主体因果説によると、あなたの内的状態が行動を作るのではなく、「あなた」によって作り出された行動が自由となる。些細な違いに見えるだろうが、同じではない。
欲求によって行動が引き起こされるというのがどんなものなのか、我々はだいたいわかっている。
しかし、それに対して、「あなた」によって行動が引き起こされるというのはどういうことなのか?とりわけ、あなたの行動や選択や決定を引き起こす、この「あなた」とはそもそも何なのか?
ここに、主体因果説の重大問題がある。

この後、本では説明が続くのだが、また、今日もわけがわからなくなった。