スピノザという暗号

スピノザという暗号 (クリティーク叢書)

スピノザという暗号 (クリティーク叢書)

さて前日と関係あるような話というのが、「パーフィットの議論」という項目。
クローンをつくる前の私を「私X」
つくったあとの「私R」とクローンの「私L」。
それぞれの過去の私は同じ「私X」ではなく、
「私R」にとっての過去「私Xr」
「私L」にとっての過去「私Xl」となる。
以前は区別のつかなかったものが「私R」と「私L」にわかれたことで区別できるようになる、てな話が延々続いていくのですが、頭がついていかなくなったので、省略。
さて「〜できた」というのは、そうなったというしかなく、「信じる強い心があったからだね」とかなんとかってのは、そうなったから言えるだけでしかない。

可能的経験を拡大する自由な行動(問題解決)に対して因果律を適用して、そこに幻想的な「原因」を立てようとすることから、「自由意志」が想定されるのである。しかるに、このような「原因」は、当の可能的経験を超越するものである以上、そこに法則的認識を求めるのは、「理性の越権行為」となるだろう。

目的論的世界観はよろしくない

しかしもっとも正確にいえば、スピノザが否定したのは自由意志であって、自由そのものではない。彼によれば、自由は、自己の内的本性にしたがうところにあるのであり、理性の十全な認識にしたがう点にある。
スピノザにとって問題だったのは、何か道徳的・目的論的意味づけを世界に与えてしまうような目的論的世界観であった。それは、全ての存在者をあたかも製作物のように見なし、その製作の目的として、完成状態を設定するような考えを基礎にしているのである。それによれば、意味とは、めざされ達成されるべき目的との関係のことと見なされる(意味の製作モデル)。たとえば、ある行動は何をしようと意図しているか、その目的によって意味をもち、言葉は、それで何を伝えようとしているか、その意図内容によって意味をもつとされるのである。これを自然物にまで敷衍すれば、この世界を製作した神の意図にまで遡及されるだろう。最終的に事物を意味づけるものが神であるか人間であるかはともかく、このような意味の製造モデルにしたがえば、意味が目的として現実の生成過程の外に、その生成過程を価値判断する基準(理想)として与えられるものと見なされることになる。目的がうまく達成されれば成功、さもなければ失敗というわけである。

そんなわけで哲学は手に余って余白いっぱいなので薀蓄。
麻酔薬はけしからんとカルヴィニスト

彼は小児科医として手術の苦痛を和らげるための麻酔薬の開発に力を尽くしたが、当時カルヴィニストたちは苦痛を神から下された罰と見なしていたため、ファン・口ーンの手術を、神意に対する挑戦として非難した。彼の病院が煽動された民衆によって焼き払われたこともあるという。

そんな彼の鬱病を治したスピノザ

スピノザは、ファン・ローンに対してレンブラントの思い出をつづることを勧めることを通して、ローン自身がみずからの感情を再認識するきっかけを与えた。それはさながら、フロイト精神分析学を思わせる手法であって、自由な連想にまかされた被分析者の言葉のなかから「抑圧」された意味を解読し、それを主体自身に投げ返すことによって、快癒を促すとされるものである。(略)
フロイトに先行すること三百年近く昔に、このような「無意識の心理学」が語り出されていたことも驚きだが、さらにいっそう驚嘆に値するのは、そのような知恵が、実際に顕著な治療効果を発揮していたということである。いったいどこから、スピノザはこのような知恵と技術を自分のものとしたのだろうか?

さらに余白を埋めんと、いまさらシュミット。保守厨房ブルース。

カール・シュミットはこれを「政治的ローマン主義」と呼んだ。政治的ローマン主義者は、人間関係を権威主義的指導-服従と見なし、もっばら他人を政治的に「指導」し動かすこと自体を己れの生きがいとするために、そのときどきその目的に合うイデオロギーや理想を、次々と脈絡もなく節操もなく渡り歩くような連中(政治ゴロ)である。彼らの人間観の底にあるのは権威主義的心性であり、権力というものに目を奪われるあまり、彼らは、生活実感に根ざしているさまざまの価値関心や、身についてどんな状況でもけっして譲りえぬ生き方のスタイルや、その人らしさからにじみ出る趣味感覚といった、本来の価値の源泉を見失うのである。彼らが声高に「理想」や「価値」を語るのは、彼らがそれを本当には信じていないからであり、それを他人を恫喝する道具としてしか見ていないからである。
しかし彼らがさも生き生きと活動するときでも、それは「時の勢い」とか「時代の流れ」の従属関数でしかない以上、その言動は受動的なものである。彼らは、時代に操られる影法師でしかない。