錬金術とストラディヴァリ・その2

前日の続き。

錬金術とストラディヴァリ―歴史のなかの科学と音楽装置

錬金術とストラディヴァリ―歴史のなかの科学と音楽装置

元祖MIDI。紙ロール式のプレーヤーピアノ[オルゴールみたいなもの]は、逆に演奏を録音できて、さらに修正までできる。それは危険な変化をもたらした。

ロールに保存されるのは、(グラモフォンの音盤の溝のように)音ではなくデータなので、録音を行うアーティストは、その結果を相当自由にコントロールできた。再生ピアノの録音版を使うピアニストは、好きなだけ長く、好みのあらゆる表現を盛り込んで演奏することができ、間違えることもできた。そしてこの時点で、音楽それ自体(伝統的な形で行われる演奏)と、演奏をデータつまり抽象的な情報に変えることとの違いが重要になってきた。ピアノ・ロールは、永遠に固定された音ではなく、音を記述するひとまとまりのパラメータを保存するので、演奏そのものを鍛え直すことができた。すなわち、演奏者が満足するまで情報は加工でき、穴は開け直すことができたのである。演奏者と録音技術者は、原盤となるロールを手にして仕事を始め、間違った音や表現の変化に印をつけ、穴を開けて望みどおりに再生することができた。その結果は、理論的には完壁な録音であり、アーティストの意図そのものだった。(略)
しかし、最上の条件、つまり音楽を、それを録音したピアノで、また録音したスタジオで再生するのを聞くという条件では、ラフマニノフが「みなさん、私は今、自分が演奏しているのを聞きました」と述べるほど十分に感銘を与えた。グラモフォン嫌いのブゾーニの弟子であるパーシー・グレーンジャーは、ピアノ・ロールは実際以上に自分を偉大に見せ、自分がしたように、ではなく、自分が「したかったように」演奏する、とまで告白している。
これは危険な発言だ。音楽行為そのものからというより、音楽情報から音楽の経験を構築するということを意味するからである。一片の紙の上にデータとして表わされた音を再生する機械の助けを借りて、夢見ていたような演奏を聞いてもらうことを想像するのは、その後の音楽についての根本的な変化を暗示していた。

好きなときに音楽を聴けることの革新性

ピアノ・ロールに保存されたデータという意味での情報は、数量であり、商品であり、大量生産して広く行き渡らせることのできるものである。その衝撃は計り知れなかった。われわれは現在、あまりに音楽に囲まれ、多くの選択肢、つまり、いつでもどんな順序でも好きなものを聴ける録音された演奏に浸って生きているので、ある目的のために、そのときに演奏される音楽だけに限定されているという状態がどういう感じなのか想像するのは、実際のところ無理である。だが、二〇〇万台以上がアメリカ中に広まったプレーヤーピアノこそが、古い時代と現代との溝に橋を架け、聞き手と音楽との関係をこれ以後永遠に変えてしまったのである。音楽の聞き手は、はじめて、どんな音楽をいつどこで聞くかということをコントロールできる重要な手段を手に入れた。

バルトークの警告。

ベーラ・バルトークは、一九三七年の演説で、彼の言うところの機械的音楽の誘惑に負けることに対して激しい警告を発した。バルトークは、プレーヤーピアノのための曲を書こうとするストラヴィンスキーの動機は、作曲家と、聴衆の耳に入る最終的な音楽の形のあいだに演奏者が自分の個性をはさみこむ機会を排除することだと書いている。(略)
音楽データから音楽の経験を構築することについて彼を怒らせたものの核心は、音楽の本質が存在する場所が変化したことだった。機械的な形をとった音楽は、固定されていて永続性がある。それはぺージの一連の穴、レコードの一連の溝のなかにある。バルトークにとって、そのような音楽は呪われたものであった。これとは対照的にバルトークは、音楽をつくるのに必要な情報、楽譜で表わされた作曲家の意図は、音楽がそうなるかもしれない姿の記述だけを含む、と主張した。

魂なんていうロマン主義的ナンセンスより、演奏者の能力の限界による制約から解放される方がずっとましと、シェーンベルク

シェーンベルクは、音楽から人間の魂が失われるという批判をはねのけた。「機械化について嘆き、魂が、もしそれがあるとしてだが、機械によって追い出されると軽率に考えるのは、感傷主義だ」と彼は書いている。彼が言うところの「音楽の機械化」によって可能になる正確さという利益は、自由とか解釈の多様性とか生演奏などの喪失を補ってなお余りあると彼は考えた。

さてここで大分前の方にあった、関係のあるようなないような話。
一本の木を別の木に接ぎ木したとき、その植物の魂[成長が向かうところのもの]はどうなるのか、という問題に対しベーコンは

議論の最後に、べーコンは当時としてはラジカルな結論にたどり着く。すなわち、二つの木はいずれもそれぞれ本来の魂を保持している、その証拠に、それら二本の木がそれぞれの葉と果実をつけ続けるのを誰もが目にするではないか、と。魂についてのアリストテレスの学説が、一つの有機体を生じさせるいかなる結合もその有機体に一つの魂しか残さないとしていたのに対し、べーコンはその目で見たものに従って別の確信に到達したのである。

ちょっとここらへん、同時に読んでいたスピノザ本にでてきた話と関係あるよなないような、明日につづくつもり。