哲学の冒険

 

有名映画を題材に哲学という本。

トータル・リコール」で記憶が争点になるのは、それが本質的な変化だから。日々皮膚細胞が入れ替わったり、ハゲたりするのは質的変化。移民から映画スターそして知事と変化してもシュワルツェネッガーは彼しかしないと認識されるのは本質的変化がないからである。彼は彼しかいない、一人である。数的に同一である。この映画では記憶が入れ替わることが本質的な変化であるとされている、逆に言うと、数的同一性を証明するものが記憶である。

数的同一性

人格の同一性について問うている時、我々は、質的同一性ではなく数的同一性を追っている。我々は絶えず質的に変化している。誰でも「そのこと」は知っている。我々が知りたいのは数的同一性についてだ。つまり、何が我々を今日も明日も数的な意味で同じ人物にしているのか、そして何が我々を数的な意味で他の人とは違う人物にしているのか?(略)
なぜかというと、本質的変化は我々の存在を終わらせるもの、人物としての数的同一性を終わらせるものだからである。(略)
記憶移植によって、昔のシュワちゃんはもはや存在せず、新しいシュワちゃんが取って代わる。(略)
バーホーベンとシュワルツェネッガーは、人格の同一性の「記憶説」なるものを支持している。もしふたりが正しければ、我々の記憶は我々にとって「本質的」なものとなる。我々ひとりひとりを毎日同じ人物にしているもの、我々を他の人々と区別するもの、それは、我々の記憶なのだ。ふたりは正しいのだろうか?

さて「記憶」が問題ならば、その先になにがあるか。同じ記憶を移植されたクローンが存在するとどうなるのか。それが「シックス・デイ」の問題だ。
例えばシュワルツェネッガーが死亡し存在しなくなる。そこで保存しておいたデータを元にクローンがつくられると、それはシュワルツェネッガーとして通用する。

では、なぜひとりの人物はふたりになれないのか?ひとつのものはふたつのものであり得ないという一般原理に反するからだ。一本のビールが二本のビールではあり得ないように、ひとりの人物がふたりの人物ではあり得ないのだ。

ところが上記の理論に従うと恐ろしいことになる。シュワルツェネッガーが生きているのに、クローンをつくると、二人のシュワルツェネッガーがいることになる、それは一般原理に反する、複数存在するシュワルツェネッガーシュワルツェネッガーではない。クローンがつくられた時点で、シュワルツェネッガーという存在は消滅したことになる。

同一性の概念は人間には当てはまらない

だから、我々が今までにやってきた問いはどれも、同一と同一性について絶対的な観念が人間に当てはまるということを前提にしているのだ。問題は、人間についてのこういった考え方が、我々をパラドックスに追い込むということである。我々がまったくこのようなものではなかったとしたらどうだろう。つまり、同一性の概念というものが、あなたや私や他の人たちにはまったく当てはまらないものだったらどうだろうか。もっと正確に言うと、「同一性」(identity)の概念と「人物/人格」(person)の観念がまったく「一致」しないとしたらどうかということだ。
ひょっとしたら、このことを、シュワちゃんは『シックス・デイ』で我々に気付かせようとしたのではないだろうか。
同一性の概念は、人間にはまったく当てはまらない。自分が何であるかを理解したければ、同一性の概念もあきらめなくてはならない。我々は、生涯を通じて同一性を持てるような類のものではないのだ。私は、昨年の私とも、先週の私とも、あるいは昨日の私とさえも同一ではない。生涯変わらない私もいないし、いかなる絶対的意味においても、他人と違う私もいないのである。(略)
どちらも昨日までのアダム・ギブソンにとてもよく似た「生き残り」なのだ。だからといってシュワちゃんが悲しむことはないだろう。我々だってみな、昨日までの自分自身と同一ではないのだ。我々はみなただの生き残りであり、ちょっと前の我々にとてもよく似た生き残りなのである。あなたというものは存在しない。ただ「複数のあなた」の連続が存在するだけで、そのどれもが、先行していたあなたにとてもよく似た子孫なのである。

「私」が「私」であることの証明を、「私」がひとりしかいないから、過去から継続している唯一の「私」であるからという理由でするべきではない。仮によく似た「私」が存在したとしても、今ここにある「私」は「私」しかいない。
しかし、一人が地球で、もう一人が火星とかなら問題はないが、どちらも自分の家だと思って同じ場所に帰ってきて、自分の妻だと思って同じ女性を抱こうとしたら、どうなるのか。

人格の同一性の問題

しかし、外側から自分の同一性を見てみると、そのようなものは何も見つからない。つまり、内側から見た私の見解と一致するようなものは何もないのである。外側から見ると、私は存在せず、また存在できない。せいぜい「複数の私」の連続があるくらいだ。絶え間なく、それでいて驚くほどの速さで次から次へと続く「私」の流れ、あるいは「私」の川。内側から見ると、私は不変で唯一の人間である。私がいかなる変化を経験しようとも、その間ずっと根底で存続するものがある。でも外側から見ると、このような説明と交わるものは何もない。内側から見ると私はこれこれに違いないのに、外側から見るとそうであるはずがない。それどころか、こうであるとかそうではないとされる私が存在しないのである。
これこそが人格の同一性の問題なのである。

うーむ。頭の体操にはなった。明日に続く。