時間の種子―ポストモダンと冷戦以後のユートピア

バーク

この特異なイテオロギー的戦術の中で新しいのは空間的な特徴だけである---人が意識して集団として行なうことは破壊的にしかなりえず、致命的な倣慢のしるしにしかなりえないという偉大な反革命的文句を考えついた最初の人物は、もちろんエドマンド・バークだった。本当に人間らしい世界を形成すると信じられるのは、伝統と制度のゆっくりとした「自然の」成長だけというわけだ(略)
しかし今日の市場の人々は今や、やはりどこか「自然で」人間性に深く根差したものと思われている市場社会を擁護し、同じ幻想を掲げている。

ユートピア主義者は

その実現に関心がなかったというマルクスの異議に対し

それでもフーリエにおいては何もかもが、ユートピア論はいわば自然なもので、想像できる最小から最大にいたる様々な形態の人間集団は、その内側の勢いを通じて、何らかの形で、存在論的な宇宙の法則である「連合」に向かう傾向があるということを明らかにすべく配置されている。したがってフーリエは、少なくともそういう意味では、自分のイメージが現実的でなければならず、想像力ではなく<存在>に訴えなければならず、経験的に存在する現象に基づかなければならず、ただ、我々をとりまく世界を見るために新しい詩的な視覚が必要になるだけだということを理解していた。これに比べればマルクスの方が、まさにすでに言及した<必然>と<自由>の領域を分けるという点で、ユートピア論者である。

アドルノ

ここで、アドルノの基本的な概念を説明したい。すなわち、西側では個性と考えられているもの、本質的な人間性の輸郭をたどったように思われているものは、いわゆる文明人が自己保存の本能を内面化することからできた印や傷痕や暴力的な圧縮にすぎないということだ。我々はそうした本能なしには、この堕落した社会や歴史においては、不運にも熱さや冷たさや痛みや快感といった触感による警告の感覚を二次的神経系の中にもたずに生まれた人たちと同じく、間違いなく破減してしまう。

西側の〈他者〉

しかし、政治化と脱政治化が循環しているのだと説明したくなるというのも、同じように非歴史的な考え方であって、とりわけ、現在の社会的装いを決定した特別なトラウマがもつ歴史的内容を見逃してしまうことになる。つまり、今日、西側の〈他者〉には宗教的原理主義があるという事実に目をくらまされると、左翼の様々な失敗、さらには実に、普遍的なヴィジョンとしての近代化の様々な失敗がとっている集団的な装いの特定の起源がわかりにくくなる。