ドイツ傭兵の文化史

途中で興味をなくしたのでいい加減にやりました。

スイス傭兵

スイスの永世中立は日本とは違いメチャ武装しとんじゃボケという保守厨房の皆さん、傭兵を商売にしていたのだから、そりゃ中立が大事、いや、というより、金次第でどっちにでもつくぞという話です。

一九世紀、あるフランスの高官が駐仏スイス大使を次のように揶揄した。
「スイス傭兵に支払う賃金は金の延べ板にしてパリ・ジュネーヴの道路を覆い尽くす」。
すると、大使は負けじとこういい返した。
「フランスのためにスイス人の流した血潮は、パリ・ジュネーヴに至るあらゆる河川に満ちあふれるであろう」。
このエピソード(瀬原義生『スウィス傭兵の成立』参照)が物語るように、一四世紀以来一九世紀に至るまで、スイスの最大にして唯一の輸出産業は「血の輸出」、すなわちスイス傭兵部隊であった。ちなみにスイス政府がスイス人の傭兵出稼ぎを最終的に禁止したのは一九二七年のことである。

ハプスブルク家からの独立の闘いで名を売った山岳の民は自分達がヨーロッパ傭兵市場の目玉であることに気付く

しぱしば「軍団」とも呼ばれていたスイス傭兵部隊の組織形態を民主的と呼んでも何らおかしくはないのである。むしろそれは、世界史において民主的に組織された軍隊の数少ない例の一つであった!このことがスイス傭兵部隊をヨーロッパにおける特異な組織体とし、また彼らと契約した司令官たちにとっては頭痛の種ともなった。この組織体を現在の「組合」と比較すれば、うまい具合にその特微をいい当てることができる。それは、指導者の意志に微底的に反対して行動できる組合である。

戦士的共産主義

ランツクネヒト部隊の直接のお手本となったスイス傭兵部隊の組織運営も兵士たちの共同決定権を根底に置いていた。
そして、中世の身分社会から弾き出されて戦争という常に生死ぎりぎりのところで生きているランツクネヒト部隊には、タキトゥスが『ゲルマーニア』で伝えているドイツ上代・ゲルマン諸族の「民会精神」の伝統が著しく増幅されて顕れる。こうしてランツクネヒトは、極論すれば一種の「戦士的共産主義」の様相を呈していく。つまり、個我の優先と共同決定こそがランツクネヒトの本質をなしていたのである。だが、君主権の強化がこのランツクネヒトの本質を徐々に骨抜きにする。三十年戦争頃になると、ランツクネヒトは個我の精神を失い、その共同決定権も軍当局から剥奪されていく。とはすなわち、個々の兵士を軍隊という組織の歯車とし、ランツクネヒトの精神的紐帯を帝国への忠誠心に染め上げようとしたマクシミリアン一世の悲願が、ここに来て、二〇〇年という長い時を経てようやく形を取り始めたことになる。しかし、皮肉なことに、この三十年戦争で帝国(ドイツ王国)は事実上解体し、マクシミリアン一世の悲願は、ドイツ諸侯国(分国)内に限定されて芽生え、諸侯国が分国内での君主権の強化を押し進め、君主への忠誠を誓う軍隊の創設へと邁進することになったのだ。

もっこり、かたつむり

一六世紀も進むと、ズボンの切れ目や襞の膨らみ、房飾りがどんどんと巨大になっていく。こうして「トランクホーズ」*1が歩兵の凱旋行列に登場した。これはファンタスチックではあったが同時に兵士の動きを封じてしまい、実戦には向かなかった。ランツクネヒトの服装でとくに目につき、まさしくとびきりの部分といえば、逸物を覆うところ、つまり「ズボンの前の袋」であり、当時は「前当て」とか「ズボンの前当て」といわれていた。この前当てはすでに後期ゴシックのときから流行になっていた。前当てはランツクネヒトにとって欠くべからざる衣装の一つであった。そのためできるだけ目立つ布地や革で作られ、せっせと磨き上げられたのである。前当ては逸物の保護と同時に兵士の男伊達のシンボルであったのだ。ランツクネヒトはそれをストレートに、かつ、いとおしむように「大バイオリン弓」と呼んだ。他にも「牛の頭」とか「かたつむり」と呼び名がついていた。これらの呼び方からして、兵たちがいかに男らしさの表現に意を砕いていたかがわかるだろう。

服装で身分を区別していた社会への反逆。

ランツクネヒトの奇矯な衣装、とくに男根をこれみよがしに強調したズボンの前当てこそ、身分によって決められた服装に身を包んでいるその他の市民・農民たちと彼らとをはっきりと区別するものであった。そしてランツクネヒトの少なくとも半分は、農村の田舎出身であるにもかかわらず、あるいはまさにそれがゆえに!、自分たちは農民たちとは違うのだと誇示したがっていただろう。ランツクネヒトになった者は意識的に自分の職業と身分を捨て、もはや辛い手仕事に従事することなく、まるで貴族のように「騎士らしく」戦う人種に属することになるのである。

死に直面する愛

レイプ三昧、従軍慰安婦抱き放題だけど、死を前にロマンチック。

しかし、これらの告発から受ける印象とは違って、ランツクネヒトが歌う女性像は明らかに全く別なものであった。彼らのリートには「娼婦」は一切登場してこない。登場するのは行軍に同道せざるを得ない美しい「女性たち」であり、そこで歌われたのは、「実直な娘さん」、「美しい妻」、「宿屋の娘」、「宿屋の女将」、「愛人」、「すてきな恋人」たちである。(略)
ランツクネヒトと性愛と死。当時の芸術家の観念では、これらは三位一体をなしていた。ランツクネヒトの愛は死に直面していた。死はすぐ間近に迫り、愛が芽生えたその日に、死が兵土を襲うことも十分にあり得た。戦で、病気で、そしてときには賭博のぼろ負けや酔っての喧嘩で死ぬこともあった。だからこそ、「美しい娘さんよ、俺の熱き思いを優しく受けとめてくれ」というわけである。パヴィアの戦いについてのリートは、まさにこの詩句で始まっている。槍方陣が突撃あるいは防御の陣形をとったとき、多くの兵士は夢かうつつかわからないが、ともかく一人の娘に思いを馳せたのである。

財源を安定させたヴァレンシュタイン

傭兵たちへの給料支払いという主要問題に関しては、ヴァレンシュタインは単純かつ効果的な解決方法をとった。すなわち彼は、軍税システム(占領地に課す軍費)を財政原理にしたのである。これによって軍税が恒常的戦争税の別名となった。この恒常的戦争税とは、帝国諸都市に皇帝軍の財源を無理矢理支払わせるもので、本来は狡滑極まるやり方であったが、皇帝軍の強大さを考えればどの都市もとても支払い拒否などできる状態ではなかった。

*1:膝の下で縛るだぶだぶのズホン