磁力と重力の発見・その2

前日の続き。  

磁力と重力の発見〈2〉ルネサンス

磁力と重力の発見〈2〉ルネサンス

  • 作者:山本 義隆
  • 発売日: 2003/05/23
  • メディア: 単行本
 

 オウムで貧乏籤を引いたからゴミ本書いてもいいじゃないと開き直る島田某もいれば、運命を受け入れる人もいる。

大学紛争ブルース。

しかし「現代の医家たちが恥ずべき仕方で患者に障害を与えていることは周知の事柄ではないか」と言うにおよんでは、それは旧来の医学教育にたいする公然たる闘争宣言であり、同時に、暖衣飽食の生活をおくる体制側の医師や大学の学者たちにたいする告発でもあった。パラケルススにあっては、教育理念における批判が階級的倫理観に裏づけられていたのである。憤激した大学当局はパラケルススの講義を受ける者には試験を受けさせないと警告し、学内の講堂の使用を拒否した。これにたいしてパラケルススは学外で講義を強行することで応えた。それもラテン語ではなく日常的なドイツ語による講義であり、そのこと自体が旧来のアカデミズムにたいする挑戦であった。そのうえパラケルススの圭角の多い性格も禍した。もちろん市民の無理解や同業者の嫉妬もあったであろう。結局、フローベンの死により数少ない庇護者を失ったパラケルススは、一五二八年二月に市医の職を棄てバーゼルを去ることになる。
こうしてふたたび流浪の生活をしながらパラケルススはおのれの医学思想を書き続け、一五四一年にザルツブルクにおいて貧窮のうちに客死した。享年四八歳、短くとも波瀾に富んだ、そして傍目には破天荒に見える人生であった。生前は胡散臭い山師か誇大妄想狂のように見なされていたため、そしてまた書かれたものもアカデミズム医学と大学の医師たちにたいする激しい悪罵と挑発に満ちていたために、書き綴った膨大な原稿の多くは日の目を見ることはなかった。しかし彼がおこなったとされる奇跡的な治療の噂が死後に広まるにつれて、彼にたいする関心と評価は高まってゆくことになる。

著作権問題

しかし、科学の営為がたてまえとしてガラス張りで民主的なものになったのは実際にはかなり後のことで、また科学の高等教育の機会が均等に開かれるようになったのも--イキリスのグレシャム・カレッシを例外として--大陸ではフランス革命以降のことである。それまでは、とりわけ学術雑誌といったものが存在せず、もちろん著作権知的所有権といった観念の未確立な十六・一七世紀の段階では、発見の先取権を確保するためにアナグラムを利用するといった秘匿体質は科学の世界にも珍しくなかった。(略)
同様に、デッラ・ポルタより11歳も年若いチコ・ブラーエも、その膨大な観測データを私有財産として秘匿し、腹心の弟子にしか見せようとしなかった。実際、チコに弟子入りしたばかりのケプラーは「チコはきわめてけちで、その観測結果を教えてくれない」と零している。

さて第三巻に突入するはずなのだが、挫折。スプリング歯で噛む。切腹。今日はこれでおしまい。まあ言い訳すると、やってくるのはキーワード「草ノ仁」ばかり、やる気しねえ。