サロンの思想史・その2

 

前前日よりの続きです。
既にお気付きかもしれませんが、肝心のサロンの風景についてはすっ飛ばしてます。スミマセン。
サロンそれは身分の違いを忘れて自由な会話や交際ができた空間。調子にのったヴォルテールが大貴族の息子に決闘を申し込んで従僕にボコボコにされて、サロンと現実の社会の乖離を思い知らされたりするのだけど。多分ネットでもしでかして、逮捕されるタイプ。
デカルトを受け入れたのは専門家ではなく面白い新思想を求めていた素人やマージナルな反体制の人々だった。

サロンの思想史―デカルトから啓蒙思想へ

サロンの思想史―デカルトから啓蒙思想へ

 

一七世紀前半でこれらリベルタン以外にデカルトを評価したのは、かつては『省察』(一六四一年)をめぐって彼と論戦を戦わせた大アルノーをはじめとするジャンセニストたちで、あの反デカルトの急先鋒のように見られているパスカルも、デカルトの「空想的な」自然学は攻撃するものの、霊魂と身体を截然と区別することによって死後の霊魂の不滅を証明しようとした彼の形而上学は高く評価していた。

「動物はただの機械ですから」

と犬を打ち生体解剖するデカルト派。

当時日の出の勢いのデカルト派にたいしてガッサンディ派を含む他のすべての学派が論争を挑んだ、有名な「動物の霊魂論争」というホットなテーマであった。
周知のようにデカルトは人間にしか霊魂の存在を認めず、人間だけが思考と意志と情念をもつのであって、動物は理性をもたないことはもちろん、「意志」をもって行動したり、「悲しみや喜び、愛や楽しみ、ひどい苦しみ」などさまざまな情念を抱くように見えても、それは見かけだけで、実は「時計」のようなただの機械にすぎないと主張した。

繁栄時の啓蒙インディーズ・地下で写本を回せ

すくなくとも一七四〇年代までは、有能な宰相フルーリ枢機卿の手腕もあって、経済的には上昇の一途をたどり、人口は増え、戦争はすべて国境の外で戦われて旗色もよく、フランスがヨーロッパ一の大国として栄えた時期であった。そして豊かな繁栄の時期には、社会にそれほどつよい不満や改革への欲求が生まれるはずもなく、思想の解放、社会の改革を目途とする啓蒙思想は、まだこの時期には、大半が地下の日陰に細々と育つ存在でしかなかったといえる。世紀前半というこの時期が、地下写本という情報伝達手段の最盛期であったということこそ、まさに当時の思想状況を象徴する事実であった。

ねえ、ハスミン、こっちむいて

軽率なヴォルテールは一七五二年にベルリンのフリードリヒ大王のもとへ逃れるまでに、逮捕、投獄、国外追放、国外逃亡と、幾度となく危ない橋を渡っている。その一方で王立科学アカデミーの終身書記、アカデミー・フランセーズ会員として学界、文学界の大御所的存在で、またそのときどきの権力者とも近く、というふうに、百年にも及ぶ長い生涯のあいだ一貫して表舞台を歩いたフォントネルは、慎重に本心を心の奥深くにしまいこみ、生涯、地下作品の中でしかそれを吐露することはなかった。

公用語ラテン語で書いたガッサンディは全欧に名声を広げたが、男性社交人でさえラテン語読解に不自由する時代になると、一般読書界では読まれなくなり、フランス語で書いていたデカルトが広く読まれるようになる。

一八世紀はいわば「アンガジュマン」の時代であって、フィロゾフたちはなによりもまず自己の思想によって人びとを動かし、そのことをつうじて現実を変革しようと考えた。そのためには少しでもおおくの読者がその作品に接し、それを咀嚼する機会をあたえなければならない。彼らが作品の読みやすさに腐心し、彼らの思想を乗せて運ぶ魅力的な乗り物として対話を考え、小説を構想し、戯曲を組み立て、事典を編み、その他あらゆる手段を利用してその思想を広めようとしたのはこのためであって、彼らには、深い思索の成果ともいうべき深遠な成熟した作品などを完成させるべき余裕も、その意図もなかったものと考えられる。

[そんな彼らも一方で、孤独な思索による抽象的で読者への配慮を欠いたそっけない作品も残しているのだが]
女性に自由を与えた方が男性も得ですという、ランベール夫人のフェミニズム

なぜなら才能を伸ばす道を閉ざされて、浮薄な迷いに彷徨い、「自分自身でなくなることが、すべての逸脱の源なのだから」。夫人は高らかに宣言している。「私は女性を代表して男性にたずねます。あなた方は私たちにどうしろとおっしゃるのですか。あなた方は愛すべき精神と正しい心をもった尊敬すべき人と結ばれたいと、みな願っておいでです。さあ、それなら女性たちにその理性を完全にできるような努力を許しておやりなさい」。

ルソーの 「7歳にして男女席を同じうせず」

彼の小説『新エロイーズ』(一七六一年)によれば、フランスにおけるサロンや社交生活のように「たえず男女が入り交じった慎みのない形」が見られるのは、「フランス人とその真似をしている国々の住民」だけなのだ。これにたいして「世界中のどの住民のもとでも恒常的に見られる慣習」はというと、それは「男は男同士、女は女同士で暮らし」、「せいぜい食事をいっしょにするくらいで、そのほかに男女がともにすることはなにひとつない」といった生活様式なのであって、それこそがルソーによれば「もっとも自然な」男女のあり方であり、そしてこのような彼らの生活に、ときとしてつよい喜びでもってアクセントをつけるのは、全員がともに感情を分かち合う祝祭や収穫の集いなのだ。

明るい未来への進歩を確信する近代派と礼節かつ質素な時代を愛惜する古代派。

そして一七三〇年代以後は奢侈をめぐる論争がそこに加わっていき、奢侈が商工業を盛んにし、それによってひいては貧者をも含めた国民全体を裨益するという弁護論を展開するヴォルテールらの奢侈擁護派にたいして、反対派は奢侈を攻撃するとともに、一国を支える根幹として農業を尊び、質実剛健の生活をよしとするのである。

サロンのまとめ

そもそもサロンの役割は、女性を男性より一段劣った存在とみなす不平等な社会の圧倒的な圧力の只中にあって、大海のなかに浮かぶ離れ島のように、そこにおいてのみ男女の自由で平等な交際と会話を許容する特権的な架空の空間を創造することにあった。したがって、男女が自由に論じ合える場が数限りなく提供されている現代においては、サロンの主要な役割はすでに終わったというべきだろう。