神々の闘争

神々の闘争 折口信夫論

神々の闘争 折口信夫論

 

「蕃族」の世界

大日本帝国がジェノサイドを敢行し、同化政策後、最も忠実で勇敢な部隊となった「蕃族」。生きるとは戦争だけであり、しかし部族内は絶対平等という首狩り族。

まさにアナーキーユートピアとでも名づけるほかない「蕃族」の世界。「絶対戦争」と「絶対平等」を生存条件とした荒々しい野生の世界。しかしここで「戦争」と呼ばれている行為は、「蕃族」のなかでは自ら勇者となるための神聖な試練であり、それを逃れようとするものなど一人としていないのだ。そしてまた、そこに起こる「戦争」は徹底的に遂行される。「捕虜」という概念をもたない「蕃族」は、敵のすべてを老人、女、子供も合めて皆殺しにする。「蕃族」においては、「勇敢」と「残酷」はまったく同じ一つの概念であり、そこにためらいは存在しない。「戦争」のためにその生のあり方すべてが規定され、また彼らにとって、そのような「戦争の法」に従うことこそが、まさに「幸福」の実現である社会。

「蕃族」は、国家的な権力の形成にあらがう絶対的に平等で、強固に宗教的な統一をもった共同体を維持している。共同体の記憶は「移動」と「戦争」である。そこで「戦争」は文字通り殺し合いであると同時に「魂」をやりとりする神秘的な交流であり、すべてにおいて霊的な様相を呈する。(略)
つまりこの世界とは次元の異なる絶対的な外から、祖先の「霊魂」を自らの体内に取り込み、その「力」を得ることで神的な狂戦士が生まれるのである。おそらくこのような記述が、折口における、すべての権力の根源にあり、天皇即位における最高権力の受肉でもある「外来魂」を身体に賦与するというタマフリ儀礼の、民族的な裏づけとなっていったように思われる。

大東亜共栄圏」構想

にはイスラムとの連帯・イスラム天皇制というものがあったという話。

明治維新」は「天皇」によって「民族」の覚醒が促されれば充分であったが、「昭和維新」では理念上同じこの「天皇」によって「民族」が解体され、もう一つ上の次元で新たな「共同体」として再結合されなければならない。

北一輝大川周明

「世界ノ各地ニ予言サレツツアル「キリスト」ノ再現トハ実ニ「マホメット」ノ形ヲモッテスル日本民族ノ経典卜剣ナリ」(三四六)


排日運動の吹き荒れる上海で、北一輝がこの『改造法案大綱』の結論部分を執筆していたそのすぐ側には、大川周明がいた。書きあげられた『改造法案大綱』は大川の手に託されることになる。二人のあいだには一体何が話されたのであろうか。来たるべき「国家改造」と、それを軸にした「アジア共同体」の建設。そこに、大川が主体的に関わろうとしたイスラーム共同体のイメージがあったことはほとんど疑いのないように恩われる。


石原莞爾

石原にとってこのアジア共同体の盟主は「天皇」である。だが、「日本」はその中軸となる必要はない。「天皇が聯盟の盟主と仰がるるに至っても、日本国は盟主でない」(「昭和維新論」)。そして、この主張は大きな批判を浴びた。

折口信夫の夢想「純粋言語」

さまざまな文法構造を植物の「種子」のようにあらかじめそのなかに組み込み、無限に多様な「意味」を同時に、また重層的・多面的に包含する根源的な言語。(略)
折口の夢想のうえに胚胎された「純粋言語」。それはまた、「力」としての言葉であった。この「純粋言語」の包合するすべての「意味」が一斉に展開され、解き放たれた時、そこには、この時空を破壊し未知の新たな世界を現出させかねない、激烈な「力」が発生する。そしてミコトモチのもつミコトとは、折口の夢見ていた「純粋言語」が解放する、このような無限定・無方向な「力」に、一つの強力な方向づけを与えたものなのである。イスラーム預言者ムハンマドが、彼に従う、際限なくひろがる宝石の知覚をもった野蛮で勇猛なる砂漠の遊牧民たちに施したように……。その方向性とは、一言でいえば、至上なる「神の命令」である。