- 作者: 小谷野敦
- 出版社/メーカー: 新曜社
- 発売日: 1997/10/31
- メディア: ハードカバー
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夏目漱石「それから」の以下の部分を引用して
代助は、……手に持つた賽を投げなけれぱならなかつた。上になつた目が、平岡に都合が悪からうと、父の気に入らなからうと、賽を投げる以上は、天の法則通りになるより外に仕方はなかつた。賽を手に持つ以上は、又賽が投げられ可く作られたる以上は、賽の目を極めるものは自分以外にあらう筈はなかつた。代助は、最後の権威は自己にあるものと、腹のうちで定めた。…此四五日は掌に載せた賽を眺め暮らした。今日もまだ握つてゐた。早く運命が戸外から来て、其手を軽く敲いて呉れれば好いと思つた。
小谷野はこの文章のサイコロを用いた例えがおかしいと言う。サイコロゲームの本質は賽の目がわからないということなのに、賽の目は自分が決めると言っている。賽を「投げるか投げないか」を決めるのが自分だというなら正しいが、「賽の目」を決めるのが自分だというのはおかしい。何故そんな不適切な比喩を用いたのか。それは・・・と、なんだかんだ論理は展開していき
代助の「愛」なるものは、三千代が作ったのである。三千代が無垢である、という幻想を追い払って読んでみるがいい。鈴蘭の活けてある鉢から水を飲み、「淋しくつて不可ないから、又来て頂戴」と言う三千代が、一貫して男の関心を自分に引き寄せるべく巧みに振る舞っていることは明瞭ではないか。「賽の目」の決定権が彼にあるのは、「賽の目」である三千代自身が彼をして「賽を投げ」させたのだから当然である。つまりあらゆる決定権は、実は代助にはないし、「自然」にもない。「賽を投げる」という不適切な比喩は、この構造を隠蔽するために用いられたのだ。
となって、さらに西洋にとって近代化は「賭け」であったが、日本は近代化の成功を模倣しただけで賭けてはいない、てな話も出てくる。
うーん、これだと代助は三千代にクラッとくる自由があるようにになるが、違うんじゃないだろうか。以下「それから」を再読することなく誇張して書いてみる。
そもそも代助は三千代がキレイだからではなく、他に貰い手がいないだろうから好きになったのじゃなかろうか。確かに「可哀想だた惚れたてことよ」だから、そりゃ惚れてるってことだと言えるかもしれないが、重要なのは競争相手がいないという点だったのだ。持参金付きの娘との縁談を断るのと同様に、ともかく競争から逃げたかったのだ。ところがなんと友人がいいと言い出した。一番恐ろしいのは、女を巡って競争するというブザマな状況に置かれることだ。女への気持より競争を恐れる自分の本心を隠すために、これは友への義侠心なのだと自分に言い聞かせて、さっさと三千代と友人の仲を取り持って逃げ出す。そうやって競争から逃げ続けていれば加害者にならずにすむと思っていたのに、破綻しかけた結婚生活という不幸をぶらさげて三千代が現れたため、「何もしなくても」加害者になることを代助は知らされる。実に面白くない。どちらに転んでも加害者にならなければならないのなら、まだ「自分が逃げたことで」被害を受けた三千代を選択する方が筋なのである。その選択を三千代は「やっぱりこの人は私に惚れてる」と取るだろうが、代助にすればうんざりである。地味だからいいと思っていた女は、自分に惚れていたという確信から色仕掛けで迫ってくる。興ざめだ。加害者にならずにすむと思っていた自分の愚かさに対する責めを負って、三千代を選択するのに、世間からも三千代からも女に惚れてバカをやらかしたと思われるのである。
どのようにしようと選択しなければならず、選択肢の中でも一番悪いものを選ぶ「敗者の選択」を採用したとしても、他人からは嬉々として競争に参加しているとしか見られない、非常に不愉快な事態を表現するためにへんてこなサイコロの例えを用いたのではなかろうか。どの目がでようが、本当はどうでもいい。しかし、世間が望むならそのゲームに嬉々として参加するフリをしてやろう。その結果もすべて自分の責任だと受け止めてやろう。しかし最後の意地として、サイコロの目は誰でもない自分の力によるものだ、自分が出したのだと言い切ってやろう。
てな事を書いている途中で読んだ本に面白い事が書いてあったのだが、それはまた明日。