ホッブスと自由意志

どうもヘタにまとめようとか、前後もちゃんと読んで完全に理解してからなどとやっていると、書きそびれてしまうということがわかったので、ペラッとめくって面白かったところを片っ端から引用していく方式にする。そういうわけで重複したり前後したりすると思います。ついでに「モーニュー流謫」から「本と奇妙な煙」に改名。アンタ、天国に行くわよ。

「読者」の誕生―活字文化はどのようにして定着したか

「読者」の誕生―活字文化はどのようにして定着したか

 

このタイトルでこの副題ですが、ペラッとやったらホッブスや「自由意志」についても書かれていました。自由は素晴らしい、自由は大切な権利、とかそういう積極的理由ではなく、神の造った世界になぜ「悪」などいうものがあるのか、それは人間がちょろちょろ自由にやるからじゃない、という言い訳めいた発想から「自由意志」についての議論が起こっていたのだな。

ルター

大雑把に言うと、ルターは「聖」においては全てが必然だが、「俗」においてはサタンにそそのかされた人間が自発的に悪をなすという考え。

357 ルターは、「必然性」で宇宙万物を塗り込めることの恐ろしさを、充分に意識していた。人間にとって全く不可解な神というのは、恐るべき存在ではないのか。
359 ルターもカルヴァンももっていた「聖」と「俗」とをわける両世界論がホッブスにはなく、それだけかれの「必然」論は徹底していた。

ホッブズ

お前はすべて「必然」だというが、こうしてお前の悪口を書く「自由」が俺にはあるじゃないかという論争相手に対して、ホッブズは書く書かないはあなたの自由であって問題は書きたいという「意志」がどこからきているかなのだと答えている。
欲望等から本人の意志で行動した場合たしかに「強制からの自由」ではある。だがその欲望等は「必然的」に決定されており「必然からの自由」ではない。つまり「ヤリタイ」と思った時にやるやらないは自由だが、「ヤリタイ」という衝動は既定のものなのだ。

363 大枠は必然性の鎖で固く縛られているわけであるが、意志は「自由」だと、そう思いたければ思えばいいじゃないか、というのである。かなり冷酷な御言葉に聞こえるが、そうだとすれば「自由」だという意識は、単なる幻想でしかないが、ホッブズは人間社会の運行にとって、必要な「幻想」だと考えていたようである。

むきだしの自然の「力」による征服者等による支配から、「opinion」による僧侶等の支配が始まり

266 かれらの間の最も強い欲望は、かれの「意見」「ドクトリン」が、最もすぐれている、権威があると社会に認められることである。このことをめぐる戦いが、「野蛮」にはなかった堕落と残酷さを市民社会にあたえる、とホッブズはみたのである。なにやら後代のルソーを思わせる意見であるが、これが不可避的に多様な「意見」に分解する市民社会の現実に対する、ホッブズ・分析の基本線であった。