「読者」の誕生・続き

前日の続き。

1620年アムステルダムで英語のニューズ・ブック刊行。
噂ではなく真実の情報であることが売り。中にはニュースをアルファベット順にして保存し切売りするといったデータ・バンクのようなことをやるものも。また情報を待つのではなく、リポーターを派遣したり、ニュースを面白く加工する「ひやかし屋」がいたり。そんなニューズ・ブックを批判したのがベン・ジョンソン

ジョンソンは、時間に縛られた、噂と区別できないような、「ニュース」(新聞)というものが、「商品」として売買されること自体に我慢がならなかったのである。ジョンソンは同時に、本来「商品」であるべきではないものが「商品化」されることの結果として、印刷された「ニュース」が帯びるある種の権威、あるいは体現していると思われる「後光」についての読者の幻想を、かなりしつこく問題にしているのである。

ロバート・バートンはニュースという形で断片化された「世界図」に触れることへの不安を表現している(1628)。ちょっと長いけど面白さを伝えるために以下大量引用。

「私は毎日新しいニュースを聞く。戦争、疫病、火事、洪水、窃盗、殺人、虐殺、流星、彗星、亡霊、不思議なもの、化けもの、フランスで、ドイツで、トルコで、ペルシアで、ポーランドなど、などで、町がとられた、都市が囲まれた、というふつうの噂である。毎日どこかで兵隊の動員、戦争の準備が行われているとか、そうした類いのことを聞かされる。こうした嵐のような時代に起きることは、戦争が行われ、多くの人が殺され、船の難破、海賊とか、海戦、平和、連盟、戦略とか、新しい警告とかいったものである」。

押し寄せる情報から精神のバランスを保つために人は「ニュース」群を次々を忘れ去る。

商人など大陸の情報に具体的利害のある人間(大体、独自の情報網をもっている)を除いて、こうした対外ニュース読者の一つの核は、熱心なピューリタンの諸君であった。かれらは「世界」を神(プロテスタント)と悪魔(カトリック)が闘争する一つの舞台とみた。そうした頭のなかの「戦場」の動向、外国ニュースに、かれらは一喜一憂したのである。

民衆にもわかりやすく語るのがピューリタンの理想であり、ミルトンはこう書く。長文恫喝野郎達に読ませてやりたい素晴らしい文章だね。

華麗でこれ見よがしなものを読むことが、低俗な大衆の間では、もてはやされている。だが、疑いもなく宗教の事柄については、最も平易なものを書く者が、最も学問のある者である。小さい手引書をこえない、私の使っている簡潔さは、多分、大きな本だけが大きな物事を決定できると考えている読者にとっては、大したものだとは思われないかも知れない。しかし、私は短くて済むことに大騒ぎしないという世間一般ふつうのルールをえらぶことにした。

本題にもどろう。ミルトンは、オーソドックスなプロテスタントらしく、聖書を聖霊の光に助けられた私の「良心」にしたがって解釈することを、人間のすべての思考・行動の基準にすべきだと考えていた。こう述べるのは、一般原則として簡単だが、「聖霊」と「良心」との関係は、論理的にも歴史的にも、かなり危ういバランスを保ってきた。たしかにそれはわれわれがその影の下にある「近代」個人主義の源泉の一つではあるけれども、個人の「良心」などを基準にするから、信仰の世界がバラバラの無政府状態に堕してしまうのだ、というのがカトリック教会(あるいは国教会)の批判であり、「聖霊」の働きを「聖書」の文字よりも重くみれば、クエーカーになってしまうからである。