平和を破滅させた和平

平和を破滅させた和平―中東問題の始まり(1914‐1922)〈上〉

平和を破滅させた和平―中東問題の始まり(1914‐1922)〈上〉

民主化が進んだ英国は専制的ロシアとの紛争の中で嫌悪感を高め)

イギリス人は、ロシア人がどういう行動に出ているかということだけでなく、相手がロシア人であるというだけで反感をいだくようになった。
しかし、それと同時に、イギリス議会内外の自由党の政治家たちは、自国の保守党政府がロシアの脅威に対抗するために支援している中東の諸政権の腐敗と専制ぶりにも、嫌悪感を表明しはじめた。そうすることで、有権者の共感を集めたのである。自由党の党首ウィリアム・ユーアート・グラッドストンは、一八八〇年の総選挙の際に、オスマントルコ帝国の政府のキリスト教少数民族に対する残虐行為を厳しく糾弾して勝利を収め、保守党の首相ベンジャミン・ディズレーリ伯爵に代わって首相の座についた。

しかし、聖戦の布告がどれほどの効果を発揮するのか疑わしく思っていたドイツ大使のほうが、駐在武官よりずっと慧眼の士であることがはっきりした。大使は私信の中で、スルタンの聖戦布告に「奮い立って」同盟国側に「寝返るムスリムはごくわずかにすぎない」だろうと書いていた。その見方は正しかった。オスマン帝国のスルタン、メフメト五世がカリフとして布告した聖戦は、第一次世界大戦が生んだ新語を借りるなら、まさに「不発弾」だった。発射はされたものの、着弾しても炸裂しない砲弾だったのである。
メフメト五世の聖戦布告に対するオスマン民衆の反応は、首都イスタンブルにおいてすら盛り上がりを欠き、熱狂とはほど遠いものだった。ジハードが宣告されても、なにごとも起こらなかったのだ。