BAKAHON島田2

人を信じるということ

人を信じるということ

 

 昨日からの続き。第2章では「おまかせ」論を展開。

逆に日本人は、自分が選択しなけれぱならない立場におかれたときには、自分が下にいるような居心地の悪さを感じてしまうのではないでしょうか。自分で選択するということは、選択した事柄やその結果に対して責任をもたなければならないことを意味します。それは、むしろ鬱陶しいことなのです。その鬱陶しさが生じてしまうと、その場を楽しむことができなくなってきます。
  
相手が、自分の気持ちや思いを察してくれるのだという確信がなけれぽ、おまかせはできません。
  
言葉になっていない気持ちを察するなどということは、一種の超能力に思えるかもしれません。しかし、有能な部下なら、上司からはっきりとした命令を受けなくても、上司の気持ちを察して、行動することができます。
  
こうした人間関係が存在するからこそ、私たち日本人の多くは、宗教というものをあえて求めようとしないのかもしれません。ゆだねることのできる相手、おまかせすることのできる相手を、人として信じるということができるからこそ、それ以外に信じる対象を必要としないのです。

お客様である麻原にぴったりのポア割烹を提供した信者。麻原は信者におまかせしただけ、だって後から責任問われたら「鬱陶しい」もん。信者はあくまでもお客様の気持ちを察しただけのポア割烹。なに、「おまかせ」という素敵なシステムがあれば宗教なんていらないと。そうか宗教の中心で「おまかせ」を叫んでいたのか、スゴイなさすが宗教学者
 
以降ありきたりな話やお勉強の結果を散漫に並べて最後に適当な結論。まじめに付き合う気がしない。
第3章 村社会では曖昧な言葉のやりとりで合意形成
第4章 近代共同体喪失で人を信じることが難しくなったね
第5章 日本人は仏教の真髄が自分の命を惜しまない不惜身命だと理解
第6章 日本人にとって宗教は選択を強いる排他的なもの
第7章 (全然論点が絞れていないと思うオレが頭が悪いのか)共同体喪失でもその原理は引き継がれてきたから日本は人を信じることが可能な社会なんだ
 何も知らずに、「負け犬」キャリアウーマンとかは救いを求めてまだ読み続けているのか?また女子大生を騙すのかい?
第8章 そして、いよいよオウム話が、キター!