- 作者: 島田裕巳
- 出版社/メーカー: 晶文社
- 発売日: 2004/09/01
- メディア: 単行本
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第一章では歌舞伎「勧進帳」を例に以下のように展開。
いったいどうやって絶対絶命のピンチを乗り越えろと言うのか。弁慶の身になってみれば、義経にそんな恨み言の一つも言いたくなるところでしょう。
けっきょくのところ、富樫は弁慶と同じ価値観をもっていたことになります。価値観が同じであるからこそ、家臣は主君に対して忠を尽くすべきだというもっとも重要な事柄をかなぐり捨ててまで主君を守ろうとする弁慶の姿勢が、富樫に動揺を与え、激しく感情を揺さぶったのです。
弁慶が、断腸の思いで杖をふるい、強力に身をやつした義経を殺すとまで言い出したことで、その気持ちに尊いものを感じたのです。富樫にしても、義経一行をみすみす逃してしまうわけですから、今度は自分が答められることを覚悟しなけれぱ一なりません。富樫もまた、自らの命を犠牲にしようとしているのです。それも、弁慶の義経に対する強い思いをまのあたりにしたからにほかなりません。
何も知らない読者には歌舞伎の話であるが、著者島田の脳内では、義経=麻原、弁慶=信者(実行犯)、富樫=著者という図式になっている。つまり島田とすれば麻原の意を汲んで必死になってポアを実行した信者に胸打たれ世間に批難されようともオウム一行を逃してやったのだと主張したいようである。ところが同時に「勧進帳」における日本のリーダーシップ論が語られているため話がややこしくなる。
しかし、すべてをゆだねたときに、主君と家臣との関係は逆転します。主君は家臣にすべてをゆだねた以上、その家臣が何をしようと、主君の方ではそれにしたがうしかないのです。最悪の場合、家臣は主君のことを捨てて逃げてしまうかもしれません。それでも、ゆだねてしまった以上、家臣の振る舞いを批判したり、非難したりはできないのです。
「勧進帳」には、日本的なリーダーシップの考え方が示されているとも言えます。弁慶は主君ではないわけですから、厳密な意味ではリーダーではありません。ただし、主君である義経からすべてをゆだねられたとき、その場を仕切っていかなければならない立場におかれました。その点で、弁慶は安宅の関を通過しなけれぱならないという課題を負ったチームのリーダーとなったと言えるでしょう。弁慶にとって、ゆだねられるということは、リーダーとしての責任を果たすということでもあったのです。
しかし、日本の場合、たとえトップが事実を知らされておらず、システムに問題がなかったとしても、トップは最終的には責任をとらなければなりません。部下が勝手にやったことだという弁明は許されません。
「勧進帳」は、日本人の憧れを形にして表現したものだと言えるかもしれません。日本人は、どこまでも人を信じたいと願っています。人を信じるということに究極の価値があると考えています。もちろん、普通の場合、義経一行が遭遇したような困難な状態には直面しないでしょう。それでも、人を信じることで、自分が命を失ったとしても後悔しないという義経の気持ちは、十分に理解できると考えているのです。
トップ責任論に従って義経(麻原)よ責任取れではないのだ。リーダーは弁慶だそうである。それならトップ論なんていらないだろう。リーダーが自分でやってんだから。部下なんていないのである。「勧進帳」はただの主君家臣の「忠」を描いただけではなく、ゆだねるという美しい行為がどうしたこうしたと述べて、結局、島田が言いたいのは麻原も信者も島田も悪くないということのようである。御苦労な事であるが、それならそれでもっと堂々と主張すればいいんじゃないのかね。経緯を知らない、いたいけな読者には歌舞伎をネタにした日本トップ責任論なのだから。
長くなったので続きは明日。