“殺し”の短歌史 夢野久作「猟奇歌」、大逆事件

“殺し”の短歌史

“殺し”の短歌史

  • メディア: 単行本

東京、満洲、父・杉山茂丸 / 秋元進也

殺すくらゐ 何でもない/と思ひつゝ人ごみの中を/潤歩して行く
何者か殺し度い気持ち/たゞひとり/アハハハと高笑ひする
殺しても殺してもまだ飽き足らぬ/憎い彼女の/横頬のほくろ


 これらの歌は小説家夢野久作によって詠まれた歌で、一般に「猟奇歌」と呼ばれている作品である。
(略)
 『日記』では、久作の短歌がしだいに「猟奇歌」に近づいていく過程が見てとれる。とりわけ注目すべきは、一九二四年の欄外に詠まれた次の二首である。


カフェーに来て/ストローを口にしてやっと/人を殺して来た気持ちになる
美しい此姉さんを/突き刺したら/香水の血が出るやうな気がする


(略)
一九二七年五月五日の『日記』に、「水谷準氏より来書。余の罪のリズムの稿想をよみたりしに、石川啄木を思ひ出すなりと」という記述がある。(略)興味深いのはその後に読まれた歌とその翌日の歌である


幽霊のごとくまじめに永久に人を呪ふことが出来たらばと思ふ
血々々と机に書いて消してみる、/そこにナイフを突きさしてみる
ある処に骸骨ひとつ横たはれり、/その名を知れるものはあるまじ
観衆をあざける心舞ひながら仮面の中で舌を出してみる


 伊藤理和は「観衆をあざける心」の歌を、石川啄木『悲しき玩具』の「すっぽりと蒲団をかぶり、/足をちぢめ、/舌を出してみぬ、誰にともなしに」に親近性があると指摘している。(略)水谷に「石川啄木を思い出すなり」と指摘されたことが影響して、意識的に啄木的な歌を詠んだ可能性も考えられるだろう。
 啄木歌と久作歌の影響関係は、すでに寺山修司が指摘している。寺山は、久作の「自分より優れた者が/皆死ねばいゝにと思ひ/鏡を見てゐる」は、啄木の「友がみな我よりえらく見ゆる日よ/花を買ひ来て/妻としたしむ」に親近性があり、「猟奇歌」の三行分かち書きによる口語歌も啄木の影響だとしている。しかし、『日記』に書かれた歌は一行から二行で書かれており、「猟奇歌」の三行分かち書きが久作自身の手によるものか、啄木を想起したという編集者・水谷の手によるものかは判断がつかない。影響でいえば、むしろ石川啄木よりも加藤介春の方があったと思われる。加藤介春は久作が記者時代に九州日報の編集長を務めた人物で、久作の文章を鍛えた者である。
(略)
 久作が「猟奇歌」の世界を確立したのは、先述したように一九二四年であった。この年は、関東大震災から一年後である。この年久作は、震災後の東京を見るために福岡から上京したのだった。
(略)
 「猟奇歌」の〈殺し〉の歌で多く見られるのは、何らかの拍子に過去の殺人を思い出す、というものである。
(略)
 久作の長男である杉山龍丸によると、一九一三年の放浪時代、久作は東京で住み込みの工場労働者として働いていた。ある日、隅田川のほとりで休息していた久作は、思いもよらない“白昼夢”的な事件を目撃した。川の向こうで、ある男性が煙草を吸っていた。そこに、ハンマーを持った男が近づき、その男性の後頭部を殴って隅田川に転がり落としたのだ。その後、男性がどうなったのかは語られていないが、その“白昼夢”的な光景は、久作には到底忘れられないものだったに違いない。久作は、「自分が求めていた人間らしい社会は、何処にもな」く、「名もなく、地位もなく、理由もなく、殺され、殺している世間、世界」を知り、「人間の社会の恐ろしさ」を知ったという。
 しかも、この“白昼夢”目撃には背景がある。この時期東京を放浪していた理由は、家督相続に関し、継母幾茂が久作を禁治産者として精神病院に監禁する計画を立てていたことに起因するからである。そのため久作は「人間らしい社会」を夢見て家を飛び出し、そこで“白昼夢”に遭遇した。そのような背景のもと東京で目撃した“白昼夢”が、震災後の東京取材へと繋がってゆく。(略)


水の底で/胎児は生きて動いてゐる/母体は魚に喰はれてゐるのに
母の腹から/髪毛と歯だけが切り出された/さぞ残念な事であつたろう


 二首目は堕胎とわかるが、一首目はどのような〈殺し〉だろうか。鉄道自殺した妊婦のお腹の中で胎児が動いていたという『空を飛ぶパラソル』の記述を思えば、おそらく自殺だろう。この「胎児」も当然死ぬ運命にある。ここに、母と子、そして死の問題が浮上する。久作自身の場合は、継母によって精神病院に監禁すなわち生きながら死ぬという可能性もあったのである。謡曲教授である久作の脳裡には、当然、母と子の死別の物語である謡曲隅田川」もあっただろう。久作は、隅田川を眺めながら、生きる者の墓場をも見出した。
(略)
久作は自身の猟奇趣味について、「ナンセンス」という随筆に書いている。初めて動物園に行った時、鳥や獣はどうすれば「奇妙な形」をしている火喰鳥や駱駝に「進化」するのか、と子供ながらに感じたと述べ、それを猟奇趣味とした。不思議なもの、奇異なるものを見たいという欲求は久作に限らず誰にでもあり、「猟奇」という言葉で探偵小説を論じた佐藤春夫も同様の意味で使用していた。ただ、久作の場合、「進化」という言葉を使った点は往目すべきだろう。
(略)
「名もなく、地位もなく、理由もなく、殺され、殺している世間、世界」を見出した国土こそ、〈不思議な支那〉=満洲だった。

父・杉山茂丸は政界の黒幕


 久作の父・杉山茂丸は、山縣有朋伊藤博文桂太郎らの懐刀として暗躍し、明治、大正、昭和初期の政界の黒幕と称された人物である。久作は、茂丸の命令のもとに近衛将校になり、農園経営も行った。新聞記者の職や『黒白』連載も、茂丸のコネによると言われている。生活費を含め、久作の人生は全て茂丸に依存するような形だった。(略)
[茂丸は]満洲に関しては、「満洲だけはやめとけ。満洲は、世界の臍じゃ。あの臍を押すと、大きな屁が出る。日本は、その屁のために、亡んでしまうぞ」、「支那は永久亡びぬ国、日本は何時でも亡びる国」という主張を持っていた。
(略)
[茂丸は]「鉄道」によって、大陸国家たる日本を夢想していた。茂丸はすでに、一八九六年に政府に提出した関門海底鉄道トンネル案を、一九一八年頃、唐津から壱岐対馬を経て朝鮮に繋がる海底トンネル案に変更していた。「満洲だけはやめとけ」と主張しつつ、それを満洲鉄道と合流させ、鉄道で繋がれた日本大陸の経済圏を作ろうとしたのである。
(略)
 朝鮮で死にぞこなった父のように、死にぞこなった男たちは久作の周りに多数いた。茂丸の盟友・頭山満が指導者的存在であった筑前玄洋社と、それに連なる男たちである。(略)


満洲で人を斬つたと/微笑して/肥えふとりたる友の帰り来る


 久作の『近世怪人伝』に、玄洋社員・奈良原到の逸話が書かれている。満洲ではなく、台湾征伐の時、奈良原が「日本人の先祖」と語る「生蕃」の捕虜を連行する際の話である。奈良原によれば、捕虜は皆死ぬ覚悟を持っており、「白い歯を剥き出して冷笑」していたという。「そんな奴はイクラ助けても帰順する奴じゃないけに、総督府の費用を節約するために、ワシの一存で片端から斬り棄る事にしておった。今の日本人の先祖にしてはチッと立派過ぎはせんかのうハッハッハッハ」。「玄洋社の乱暴者の中ではこの奈良原翁ぐらい人を斬った人間は少なかったであろう」と久作が書くほど、奈良原は「人を斬」ることに一切の抵抗がなかった。(略)
[猟奇歌の]高笑いと、奈良原の「ハッハッハッハッ」という笑いは一致する。(略)


ピストルが俺の眉間を睨みつけて/ズドンと云つた/アハハのハツハ
囚人が/アハハと笑つてなぐられた/アハハと笑つて囚人が死んだ


(略)
「九州の一角」から、久作は父・茂丸たちの「裡面」を凝視し続けた。すなわち、帝都の強大化、植民地拡張に潜む「奇怪」なるものを凝視し続け、それを歌にしたものが「猟奇歌」なのである。

管野スガと明治天皇の歌をめぐって / 田中綾
石川啄木

大逆事件」は、一九一〇年初夏、「法律的には関連がないバラバラの三つの事実をまさに関連があるかのように」幸徳秋水に結びつけた事件と言われている。(略)
 近代短歌史においても、大逆事件は特筆すべき事件である。石川啄木、平出修、与謝野寛、与謝野晶子ら、明治後期の豊穣な短歌史を築いた歌人たちが、事件の真相を知りうるごく限られた場に、奇しくも会していたのだ。
(略)
担当弁護士の一人となった平出修から幸徳秋水の「陳弁書」を借り受けた石川啄木は、勤めを休んでそれを一気に写し取った。(略)
事件と国家との関わりを見抜き、それを「時代閉塞」の原因と察知し、誰よりも先鋭に歌ったのが啄木であった。


何となく顔がさもしき邦人[くにびと]の首府の大空を秋の風吹く
つね日頃好みて言ひし革命の語をつゝしみて秋に入れりけり
(略)


 どこかいやしい顔つきになっていく「明治四十三年」=一九一〇年の「邦人」=国民。かれらを創出した「首府」=帝都東京は、有為の若者たちに「時代閉塞の現状」をもたらしていた。その中で、「大逆事件」という事件が仕立てられたことは、逆に、すでにこの明治末期に国民国家が成立していた事実を照射する。かつ、その成立こそが若者たちを「閉塞」させていた事実をもあぶり出す。国民国家が刑法第七十三条を突きつけ、国民を〈殺し〉に至らしめる強権であることを見抜いたのも啄木であった。「我々日本の青年は未だ嘗て彼の強権に対して何等の確執をも醸した事が無い」と、エッセイ「時代閉塞の現状」に記したのは同じ一九一〇年である。「強権」に対する違和感と、「強権」に対して何ら問題意識を持たない青年たちへのいらだちを「真面目」に思索していた啄木ゆえに、幸徳秋水の陳弁書を書き写し、死刑執行後も膨大な裁判書類を読み続け、国家による〈殺し〉と真摯に向き合ったのだ。しかも啄木は、「管野すがの分だけ方々拾ひ読み」して、国民国家における彼女の――あるいは、女性なるものの生に注目した。

管野すが

死刑執行前日までの一週間の手記「死出の道艸」には、二十六首の短歌が書き付けられていた。(略)


いと小さき国に生れて小さき身を小さき望みに捧げける哉
十万の血潮の精を一寸の地図に流して誇れる国よ
(略)


[明治天皇は]二十四人の死刑判決が出された日、初めて、「大逆」を知らされたのである。(略)
睦仁は一九〇二、三年頃から新聞を全く読まなくなっており、衝撃をもってその話を受け止め(略)ひと呼吸おいて、事件被告に対し特赦減刑を検討するよう指示し、翌日、減刑命令が下された。大審院長らが協議し、幸徳・菅野ら十二人を死刑に、残る十二人は無期懲役となった。
 特赦減刑を教務所長から聞いた瞬間、菅野スガは、死刑判決を耳にした時よりも怒りをあらわにした。(略)「一旦ひどい宣告を下して置いて、特に陛下の恩召によつてと言ふやうな勿体ぶつた減刑をする(略)抜目のないやり方ハ、感心と言はうか狡獪と云はうか」。
 特赦減刑は、国民にも外国にも「恩威」を見せつける「抜目のないやり方」だと菅野スガが見抜いた通り、新聞でも、それはこぞって「聖恩」として報道された。
(略)
 啄木が、甚大な疲労を感じたあとに、「日本はダメだ」と日記(一月十八日)に書きなぐったのは、このような「大権の発動」が「臣民」を創出する構造を看破していたからであった。
(略)
罪あらばわれをとがめよ天つ神民は我が身の生みし子なれば
 もしも「民」が天に対して大罪を犯したならば、天つ神よ、私こそお咎めください、「民」は私の分身であり子どもなのですから――この歌意から導き出されるのは、まさしく臣民の構造である。
 この短歌を、明治天皇大逆事件に際して歌った「御製」だとする言説が、天皇没後まことしやかに流布するようになっていた。
(略)
天皇の御製の中には、このような歌は見あたらない。おそらく天皇の御製ではあるまい。これは恩命に感じた当時の国民が、天皇の叡慮をそんたくして、唱導したものが、誤りつたえられたのではあるまいか。([『明治天皇紀』編修官の一人]渡辺幾治郎『明治天皇 下巻』)

次回に続く。

 

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